酔った弟・story82
ドクターⅡは話をやめ、ふるえの止まったワイングラスをじっとにらみ始めました。
幸せくんがつぶやきます。
「ここからが肝心なのに、黙ってしまった。マジックプランについて、聞きたいのに」
わたしはドクターⅡを見すえました。
「お姉さんを人殺しと呼ぶけど、あなただってマジックプランを進める途中で、人をたくさん殺したはずでしょう。全部聞いているんだから」
ドクターⅡはうなずきます。
「姉は父を殺せる資質を持っていたから、神になれた。俺は父を殺せなかったから、神になれなかった。そう思い、マジックプランにたずさわってからは人を殺すことをためらわなくなった」
「無茶な理屈はやめて。大まちがいだから」
「貴様にはわかるまい。合法的に人を殺せるようになると、人は人を殺す。人はそういうものだ」
「わたしにはわからない。だって、そんなはずないもの」
「合法、違法、どちらの附帯情報がつくかで、人を殺すという情報全体のクオリアはまったく変わる。貴様は“合法的に人を殺す”というクオリアを知らない。ただそれだけのことだ。俺はマジックPへ合流し、初めてそのクオリアを知った。姉は父を殺した時、すでに味わっていたことになる」
姉、という言葉が出る時、グラスのワインが波立ちます。
わたしは悩みました。“合法的に人を殺すクオリア”をもしかしたら知っているかもしれません。幸せくんを中絶しようとしました。人を殺そうとしました。
「みりさ」
幸せくんの声が1人だけ落ちついています。
「つまらないことを思い出している場合じゃない。この部屋から出よう。ここから逃げ出さないと、実験体にされる。みりさの命が合法的に処分される」
{出口がわからない}
「俺が寝ている間に、ヘルメットで壁をたたいて回っただろう。保存記憶情報を調べると、1ヶ所だけ触感のちがったところがある」
{みんな同じだったよ}
「自然脳の認識レベルでは同じだったろうが、光子情報レベルでわずかにちがった。みりさは部屋の外から誰かに情報操作されている。相手は高性能だが、部屋の外からの操作なので、細かい触感までは完全に操作できていない。みりさを100%ごまかせても、俺を完全にだますのは無理だ。さっき倒れていた場所の後ろへ体当たりしろ」
{場所がわかっても、情報操作が解除されていないなら、体当たりしても同じでしょう。ぶつかって痛い思いをするだけだよ}
「思いこむな。あずさに言われただろ。自分を信じろ。俺を信じろ。ヘルメットをかぶって体当たりだ」
{あのヘルメットは汗臭いから、イヤ}
「シャワーを浴びれば済むじゃないか。死ぬよりいいだろ」
わたしはうなずきました。
{待ってね。最後に肝心なことを聞く}
ドクターⅡは話し疲れたのか、放心的な表情になっています。
「貴様は胎児とお話し中か。心を許せる話し相手がいるというのはいいものだ」
「お姉さんはどこにいるの? ドクターSDは行方不明という情報だったけど、あなたはマジックPの中にいる。行方不明はお姉さんのこと?」
「姉は自分なりの償いをした。田村様という化け物を作ったよ」
「償いになっていないでしょう。あんな化け物デブをどうして作っちゃったの?」
「誰もが姉のミスだと思った。俺ですら思った。しかたのないミスだ。脳改造という未知分野ではいろいろ想定外なことが起こる。たくさんの実験体が犠牲になるのも、田村様のような失敗作が出るのもしかたのないことだ。俺も自分をなぐさめられた。姉がミスをするくらいだから、俺がミスをするのは当然だと」
ドクターⅡはふるえる舌をワインで濡らしてから、続けます。
「しかし、初歩的なことを忘れていた。姉は神だ。ミスをしない。多くの犠牲も田村様の性能もすべて計算づくだった。姉はマジックプランを中止させようとした。この研究は無理だとマジックPへ認識させるために、わざと失敗していた。田村様のような者がいれば、マジックPは“自分たちが危うくなる”と判断し計画を中止するかもしれない、と期待した。実際、計画中止に向けた話し合いも行われたんだ」
「そのまま、やめてしまえばよかったのに」
ドクターⅡは首をふりました。
「中止が決定する寸前に俺は発言した。“ドクターSに惑わされてはいけない。彼女の策略に乗ってはいけない”と姉を告発した」
「あなたは、お姉さんを告発してばかりいる」
「ちがう。俺が告発したわけじゃない」
ドクターⅡはワイングラスを遠くの天井へたたきつけました。グラスが割れ、天井のライトが割れ、白い天井についた赤ワインがしたたり落ちてきます。
「これだけ話したのに、貴様はいつになったら理解する。姉は神だ。本物の神だ。俺は神を2度告発したが、告発すら姉の計算どおりだ。父を殺したことが俺へ発覚するよう、姉はわざとカギのかかった引出しにカニの図鑑とカブトガニの写真を入れておいた。本気で完全犯罪をする気ならいくらでも可能だったが、俺に告発させることで、自分が罪を償うチャンスを手に入れた。今回も同じだ。俺にだけ察しがつくような失敗を周到に重ね、俺の告発を誘導した。どうしてか、わかるか?」
今度はわたしが首をふりました。
ドクターⅡが続けます。
「俺の告発もないまま、姉が突然マジックプランから消えると、弟である俺が責められる。かといって2人で逃亡すると、2人とも追われる。しかし実際に起こったパターンならどうだ。姉だけが消え、告発した俺はマジックPに残り、責められるどころかむしろ重宝されている。姉は心残りなくマジックPから消えるという完全犯罪をやってのけた。神だ。完璧だ。俺はまるで神のあやつり人形だ。ガキどもにドールなどと名づけて偉そうにしているが、俺こそが人形なんだ」
ドクターⅡの体から力ががっくりと抜け、主をうしなったあやつり人形のように、椅子へもたれました。
幸せくんがさけびます。
「もう、この酔っぱらいは放っておけ。ドクターSの計画は完璧だ。姉に踊らされていたと気づいた弟がアルコールに飲まれ、自己をうしなうことまで想定済みだ。ドクターをなくしたマジックプランはもうすぐ行きづまる。みりさはとにかく逃げることだ。アル中の最後の実験体になるほどつまらない死に方はない」
{お姉さんの居場所を聞かなきゃ}
「こいつはきっと知らないよ」
{姉弟なのよ。もしかしたら知っているかもしれない。少なくとも心当たりがあるかもしれない}
わたしは椅子へ近づき、ドクターⅡの酔った体を揺さぶりました。
「お願い、しっかりして。お姉さんはどこにいるの?」
顔を上げたドクターⅡの目がワイン色に充血しています。吐く息が腐ったワインのように生ぬるく吹いてきます。
「貴様は姉を探すのか?」
「あたりまえでしょう。幸せくんを助けてもらうの」
「大切なことを教えてやる」
ドクターの酔った顔が赤く笑います。
「宇宙には物質もエネルギーもない。あるのは情報だけだ。風が吹くのは、物理作用ではない。風が吹いたという情報が認識されただけだ」
意味のわからない酔った言葉が続きます。
「物質とエネルギー宇宙はゼロからの誕生という矛盾を持つ。この困難をクリアするための様々な理論があるようだが、どれもややこしいものばかりだ。宇宙はもともとシンプルなものだから、ややこしい理論はうたがわしい」
ややこしい言葉がまだ続きます。
「情報宇宙はとてもシンプルだ。情報は認識があって初めて存在できる。認識は情報があって初めて存在できる。宇宙には情報と認識というたった2つの作用しかない。エネルギーなんか必要ない。だからゼロからの誕生という困難もない。情報と認識は常にゼロから“合わせ鏡生成”され、ゼロへの消滅をくりかえしているだけだ。宇宙とはただそれだけのことだ。物質もエネルギーも存在していない。人間の肉体も声も存在していない。宇宙そのものが存在していない。我々はいつも実在しない夢を見ているだけだ。夢という情報を信じこんでいるだけだ。思わず信じこんでしまうほど“情報を認識する”という体験はおそろしい。人間の脳は情報の本質を見抜くという行為ができない。情報の発信元を信用できるかどうかで、情報の真偽を決めているだけだ。教室のあの雰囲気にすわらされ、上壇から教師の声を聞かされると、教科書の内容をすべて正しいと認識してしまう。国中の人間がテレビの情報を信じているのを見ると、自分も信じこんでしまう。A型の人間は神経質だとテレビのスピーカーが言えば、A型の人間の行動が神経質なように認識されてしまう。認識されたら最後、人間の脳は信じこんでしまう。俺は人間の脳をもっとまともな物に作り変えたかった。情報の本質を見抜く性能を備えさせたかった。姉はどうして俺の夢をかなえてくれなかったのか。人間の脳へ夢を持つことをどうして認めてくれなかったのか」
ドクターⅡの声が途切れました。目は開いていますし、呼吸も続いていますが、脳は完全に酔っているようです。
幸せくんがわたしを、せかします。
「やっぱり時間の無駄だったじゃないか。この部屋は誰かに情報操作されている。つまりドクターⅡの言葉はマジックPの誰かに聞かれている。にもかかわらず、ドクターⅡはみりさへ告白的な話をした。もうヤケクソになっているんだ。姉の幻影によって脳をズタズタにされている」
少しでも汗の臭いを避けるため、わたしはドクターⅡの新しい方のヘルメットをかぶりました。割れたばかりの新しいグラス片を拾おうとして、びっくりしました。
{さっきのケガが治っている}
「情報操作だ。自己再生神経を操作された」
{耳が治った時と同じ? 誰がしてくれたの? 幸せくん?}
「バカ。俺にそんなことできるか。部屋を守っている高性能だろう。理由は知らないが、実験体にバイ菌が入らないよう、気をつかったのかもしれない」
{実験体になんてならないよ。わざとバイ菌を入れてやる}
わたしはグラス片を思いきりにぎり、新しい傷をつけ、新鮮な血を流しました。
{幸せくん、出口はどこ?}
「斜め右。この角度でまっすぐぶつかれ。自分と俺を信じたら、突破できるはずだ」
わたしは全精神で自分たちを信じ、おもいきり壁へ走りこみましたが、おもいきり衝突しました。床へはじき倒され、ヘルメットが脱げ飛び、にぎっていた破片がより深く刺さりました。
{痛すぎる。全然無理。ブ厚い壁。幸せくん、だいじょうぶ?}
「子宮の壁に頭を打った」
母子ともに荒い呼吸で、上半身を起こした時、信じられないものが目に入りました。
「みりさ野郎。他人の体にいきなり突撃したなら、まずワビを入れるべきだろう。ブ厚い壁とはなんだ」
壁よりブ厚い田村様の巨体に浮かぶ脂汗が、天井のライトを反射しています。