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姉と弟・story81

「宇宙で最もやせている神」というあだ名が姉にはあった。胴、手足、顔立ちといずれもぎりぎりの細さであり、神のような包容力をどこに潜ませているのかと不思議になるほどだった。肉や野菜、米、小麦など、地上の産物をほとんど食べないことが体重の増えない理由だった。

「空気にふれているものは汚いから」

 昔から姉には潔癖症なところがあり、渡米後も変わっていなかった。特に金をイヤがる。弟は、ドル紙幣を手ぶくろでしかさわられない姉を見た。

「手を洗ってからお金をつかもうとする余裕なんて、人間は持っていないから」

 脳手術の見学のため、無菌消毒を受ける時、神の笑顔が最高潮になるのを見た。

「地球で1番きれいな空気だから」

 姉と弟は同じルームに住み、同じ大学へ通った。当地でも姉は「神」と呼ばれており、あいかわらず周囲から愛されていた。

 弟も周囲から能力を認められ、快活に暮らす。脳神経という地上で最も繊細かつ多彩な分野は「やればやるほど奥深くなる」という勉強の醍醐味を秘めている。ハードな勉強に脳が疲れると、現地で知り合ったガールフレンドと出かけた。

 姉は勉強に疲れた時、料理や洗濯を行い、月に2度のスキューバダイビングでリフレッシュする。

「海の中は清潔だから。地上は情報がダイレクトに飛び交ってうるさいけど、海中ではすべての情報が屈折してぼやける。脳が休まるから」

 美しい海中の生物を写真におさめ、新鮮な海産物を仕入れ、帰ってくる。姉は脳神経学と同じくらい、海中生物の知識が豊富であり、書物で世界中の海へ潜っていた。

 姉弟が留学先から初めて帰国したのは弟の渡米から2年後だった。

 姉は、まっすぐ札幌へ帰らず沖縄でダイビングを楽しんでから自宅へ戻りたい、と希望した。父の元へ1人で帰りたくなかった弟は姉に同行した。

 姉は2日間の沖縄ダイビングでカニを2匹捕獲すると冷凍保存した。身のツルツルした丸いカニだった。

 札幌へ帰ると、久しぶりに親子3人で食卓を囲んだ。姉はカニ料理を作り、父のつまみにとテーブルへ出した。父と同じワインを飲んでいた弟がカニへ箸を伸ばそうとすると、蒸した魚の盛られている、ちがう皿でさえぎられた。

「お父様のお金で獲ったカニだから」

 夜中に中毒症状を起こした父は搬送先の病院で死亡した。

 解剖の結果、ウモレオウギガニの毒による中毒死と判明した。

 弟は泣き崩れる姉を初めて見た。

「沖縄に危険なカニがいるなんて、知らなかったから。お父様によろこんでもらいたい、だけだったから」

 警察の聴取は、姉の不注意をなぐさめ、終了した。

 弟は神の泣く姿が信じられなかった。

 信じなかった。

 海中生物に関しては学者並みの知識を持つ姉なら毒ガニの存在を知っているはずだし、自分で捕まえたカニの生態が不明瞭なら図鑑で確認するに決まっている。

 そもそも神がミスをするはずがない。不注意など断じてありえない。

 父の葬儀を終え、1人でアメリカの自宅へ戻った弟は姉の部屋に入った。海中生物に関する書物がズラリとならんでいる棚には目もくれず、カギのかかるスペースを探していると、机の引出しの1つがロックされていた。針金でこじ開けると、英字で書かれたカニの図鑑が入っている。

 図鑑を横からにらみつけ、読まれた頻度の高そうな汚れを見つけ、ページを開くと、表面がツルツル光っている丸いカニの写真が載せられていた。人間の致死量に相当する毒が筋肉にふくまれていること、海岸近くで採取できることが書かれてあり、Okinawaの固有名詞も添えられていた。

 同じ引出しで、姉が中学のころにかわいがっていたカブトガニの写真が汚れていた。

 弟はカブトガニの写真を図鑑の毒ガニのページへはさめ、姉の部屋を出た。

 警察は姉が故意に父を中毒死させたと思っておらず、過失致死で略式送検するだけのようだった。姉は収監されることなく、海外渡航の許可もいずれ下りる。

 神にふさわしい完全な犯罪。

 姉の部屋から台所へ直行した弟はワインのボトルをくちびるに当て、音を立てた。悔しい気持ちが床へこぼれた。

 神が犯罪を実行しても不思議はない。神にだって罪を犯す権利はある。姉が父を殺したことに対して、弟の感情はなぜかまったく揺らいでいなかった。責める気持ちも、おそれる気持ちも湧かなかった。

 悔しいのは完全犯罪ではあっても、完璧な犯罪ではなかったことだった。

 姉が神ではなくなった。警察や周りはあざむいたが、弟にバレた。

 神である姉が「過失」を犯すはずがないのだから、それは「故意の殺人」に決まっている。とてもかんたんなことなのに、警察やすべての人がだまされた。

 しかし“姉は神だ”と信じきっている弟までだませるはずがない。弟は「神はミスをしない」と知っているのだから、過失で納得するはずがない。弟をだませなかった時点で、姉は神ではなくなった。

 どうしてかわからないが、姉が神から人間へ転落したことが、とてつもなく悔しい。脳をかきむしってくる悔しさの中で、弟はワインのコルクを何本も抜いた。酔った足でまた姉の引出しへ行き、図鑑にはさめた写真を元の位置へ戻し、神の罪を見抜いていないフリをした。

 半年後にアメリカのルームへ帰ってきた姉は以前と変わらない完璧な生活を始めた。父の話は一切しなかった。姉はスキューバダイビングだけやめてしまい、その時間を使って遅れた勉強を一気に取り戻し、ふたたび神として君臨を始め、各方から絶賛された。

 唯一弟だけ「姉はすでに神ではない」と見破っていたから、必死に勉強を積み重ねた。姉に勝てるのは自分しかいないはずだった。神ではなくなった姉への愛情がしだいに冷め、植えつけられた劣等感を返したい心が燃えるようになった。

「姉は神なのだと、俺はだまされていた。かなわない相手なのだとだまされていた」

 だまされていたことへの復讐心のようなクオリアだった。

 しかし勝てなかった。

 卒業時の成績、卒業後の研究、いずれも姉に遅れをとった。2人は大学を出ると同じ施設で研究や術式の勉強を重ねたが、ほめられる言葉は姉の方がいつも多かった。

 弟は日本での18年間、アメリカでの10年間、とうとう姉に勝つことができず、地球で2番目の座に甘んじた。脳神経学の分野において、28歳の若さとは思えない天才的な技量と知識を持ちながら、1歳上に神がいるため、本来もらえるべき賞賛や栄誉が少なくなってしまう。

 復讐心は大きくなる一方だったが、もはや正攻法での勝ち目は見出せない。

 弟の復讐心を満たす手段は1つしか残されていなかった。長い手紙を東京へ書いた。

 姉弟の暮らす研究施設内の住居ルームへは以前から、日本政府発の手紙が何度も届いていた。

 姉はいつも読んだ手紙をすぐに捨てていたが、弟の長い手紙の後に送られてきた7度目の手紙はじっと見つめた。神の顔色をうかがう弟へ、姉は言った。

「日本では殺人事件でも15年間という時効があるから。ただし犯人が海外にいる間は、時効の針が止まるから」

 動揺している演技をしながら、うなずいた弟へ、姉は続けた。

「日本政府の管理下で、姉弟が脳の極秘研究を手伝えば、姉の罪は許される条件。ただし弟が拒否すると、姉は起訴される条件」

 弟はもう1度息を飲んだ。姉が殺人罪での起訴と収監を逃れるためには、弟へすがるしかない。

 姉がどんな顔で弟へ頭を下げるか、神がどんな顔で頭を下げるか、弟の復讐心が待ちかまえた。

 しかし神の手はまたも手紙を破り捨てた。

「あなたの指紋がカブトガニの写真に付着していたから。なにかへ、こっそりさわる時は、手ぶくろをはいた方がいい」

 弟は温かい息を飲んだ。

 姉は神の声を貫きとおした。

「極秘研究に関する話は以前からオファーがあったけど、わたしたちは何度も拒否した。ここへきて、わたしの殺人罪が初めてほのめかされたということは、つまりあなたが日本政府へ入れ知恵したことになるから。殺人罪をチラつかせたら、わたしが拒否しないと考えたはず。わたしがあなたへ頭を下げると考えたはず」

 弟は息を吐いた。

「そのとおりだよ。姉さんは俺に頭を下げて、一緒に日本へ行ってもらうしかない。そうでなきゃ、姉さんは手かせと足かせをはめられて飛行機へ乗ることになる」

 神は細い微笑みを浮かべた。

「わたしは日本政府よりも、アメリカ政府筋と仲がいいから。日本政府の極秘研究の可能性をアメリカ側へ伝えたら、彼らはわたしの技術や頭脳を日本政府へ引渡したりしない。あなたのエージェントへ伝えたらいい。本気でわたしに来てほしいなら、丁重に頭を下げるべきだから。そういう態度を見せてくれたら、わたしも善処する。手紙1枚でおどされても、おびえたりはしないから」

 姉が破り捨てた紙クズを拾い集めた弟はすぐに日本政府筋と連絡をとった。

 日本政府は弟へ、姉の帰国を実現できなければ弟を犯人隠匿の罪で告発すると、返信してきた。

 姉は確かにアメリカ政府から身を守ってもらえるほどのネームを持つ。しかしナンバー2の弟は姉の口添えでもないかぎり、アメリカ政府に受け入れてもらえない。日本の警察から逮捕状が発行されたなら、同盟国に居場所はなくなる。

 弟は神へ頭を下げた。

 姉は弟を抱きしめることなく言った。

「日本政府がなにを言おうと、わたしはわたしなりのやり方で罪を償うつもりだから。あなたは自分の考えるまま、生きたらいいから」

 姉弟は自分たちの金で帰国のチケットを買った。

 弟はいったいどうしたら神を超えられるのかを考えながら、神の隣のシートでワインを飲んだ。

 窓から青い海を見下ろしていた神は、飛行機が雲へ入ると、手ぶくろを脱ぎ、目を閉じた。

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