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ドクターSD・story80

 子宮をなでるわたしの手がふるえます。

「ドクターSDは本当にいないの? 幸せくんの手術はできないの?」

「正確に言えば、過去に存在したが、今はいない」

「死んだの?」

「いや、生きている」

 手のふるえがイライラに変わります。

「情報がウソか本当か以前に、言っていることがわからない。日本語が矛盾しているでしょう」

「矛盾はしていない。日本語を冷静に分析すれば矛盾していないとわかるはずだ。しかし貴様の脳は自己利益への執着により冷静さを欠いており、日本語をふつうに感じられていない。ドクターSDとはただのコードネームだ。コードネームの存在がなくなっても、ネームを受けた者が生存している可能性は充分にあるだろう」

 わたしの手のふるえに合わせて、指からの出血がリズムをとります。声もふるえます。

「わからない。矛盾よりも日本語が小むずかしくて、よくわからない。ドクターSDは結局なに?」

「脳神経学を専攻した姉弟がいる。姉弟のコードネームがドクターSDだ。貴様の目の前にいる男が弟のドクターD。地球で2番目に優秀な脳神経学者であり、研究者であり、医師であると自負している。周囲からの評価ももらっている」

「ドクターD? ドクターⅡじゃないの?」

 ドクターⅡはワイングラスをテーブルに置き、両手の指を組み合わせました。

「ドクターSDはもう存在しない。コードネームが変わり、現在の俺はドクターⅡと呼ばれている」

 わたしは天井の小さなライトたちを見つめました。点々と散りばめられているライトから白い熱が落ちています。

「ネームはどっちでもいい。わたしは幸せくんの脳をふつうに戻してもらえたら、それでいい。さっき、地球で唯一の完璧な脳とか、胎児の脳を手術できるとか、言っていたでしょう。その人が地球で1番なの? その人はどこにいるの?」

 ドクターⅡはヘルメットを脱ぎました。

「悪いが、言葉がふるえるかもしれん。姉の存在は俺の脳深くに突き刺さっている。いや、脳全体に突き刺さっている」


 話し始めたドクターⅡの声は冒頭からふるえました。話の途中でつかんだグラスの中でワインが波立ち、わたしは幸せくんと一緒にワインの揺れを見つめながら話を聞きました。


 札幌で47年前に産まれた女の子と、翌年産まれた弟は、幼いころ母をうしない、厳格な父親の男手によって育てられた。育てるという言葉がふさわしくないほど、厳しいしつけと教育をO歳から受け続けた姉弟は未成年の脳容量の限界まで教養や知識を詰めこまれ、見事にそれを消化できる人間になった。厳しい教育によって人間性を壊された者が人生を棒にふる逸話も数多くある中、姉弟は笑い声を持ち、優しさを持ち、他人を受け入れる度量も兼ね備えていた。

 弟は「人間として完璧」と学校であだ名された。クラスメイトは弟が好きだった。学術も運動もほぼ100%こなしながら、ほんの時々まちがいをする。10回の試験につき1回ほどのペースで発生する“99点の答案”に本人は苦笑する。クラスメイトも苦笑する。

「いつもは100点だから、神様かと思っていたら、まちがうこともあるんだね」

 まちがうのが人間である。

 つまり弟は人間として「完璧」だった。人間らしい人間だった。本人は自分の完璧な人間らしさを誇りに思いながら、学校での日々をとても楽しく過ごした。

 しかし帰宅すると表情はいく分だけ陰る。

 家には父がいた。1度も笑ってくれず、1度もほめてくれない父がいた。

「貴様は姉さんと同じ両親を持つ。だから脳の構造も同じのはずだ。貴様の点数が時々99点になってしまうのは、貴様の努力が足りないからだ」

 姉は「人間として完璧」ではなく、「完璧な人間」だった。生物の域を超えた完璧さだった。高校を卒業するまで100%、100点をとり続けた。

「神」

 誰もが姉をそう呼んだ。

 まさしく神だった。父にしかられショゲている弟を、神のように優しい声ではげますのも姉だった。

「お父様があなたをしかるのは、愛しているから。わたしがしかられないのは女だから」

 姉の腕にくるまれるたび、弟は何度も矛盾を思った。

「しかられたのは姉さんのせいじゃないか」

 しかし数秒も抱きしめられていると、姉への嫌悪は消えてしまう。神の力に抱かれているかのように、次の勉強をがんばろうという意欲が湧いてくる。父への腹立ちも姉への嫉妬もなくなり、姉をもっと好きになる。

 姉の周囲にいる者たちも、みんな姉を好いた。神才を見せる人間が不条理にねたまれたり、イジめられたりするのが人間社会だが、姉に反感を持つ人間は0%だった。

 中学時代の姉がレポート研究題材のため飼育していたカブトガニを、ワイン好きの父がつまみに食べてしまったことがある。酔った勢いで、数カ月にわたる研究を焼かれてしまったが、姉は怒ることも泣くこともせず、笑って父を許した。

「お父様のお金で買ったカブトガニだから」

 高校を出た姉はアメリカの大学へ留学した。父の命令により、脳神経学を専攻するためだった。

「これからの時代は脳神経学が文明の一翼をになう。あるいは主役になるかもしれない」

 父は弟へも留学を強要するつもりだった。

 弟は父にさからう気持ちなど持たなかったが、父と2人きりになった家の中で、何度も父をにくむ場面が起こる。1歳上の姉がアメリカへ行ってから、父の叱責はよりひどくなった。

「アメリカ人は俺のことを“神を送りこんだ男”と噂しているはずだ。貴様のように時々まちがいを犯す人間が後を追えば、貴様の姉さんや俺の神話に傷がつく。貴様はこの1年で、なんとしても神になるんだ」

 弟は姉のような神がかり的存在になるため、必死に勉強したが、人間が神になれるはずがない。

「貴様はなにをどう勉強している。貴様の姉さんは高校時代、勉強などそれほどせず、家政婦の休みの日に自分で料理を作ったり、海中生物の研究を熱心に行ったりしていたが、いざ試験となれば1問もまちがえなかった。貴様は勉強ばかりしているくせに、なぜ時々ミスをする」

 なにも言いかえさない弟へ、父の言葉は続く。

「脳神経の術式にはミスなど許されない。脳神経に触れるというのは神の領域の作業だ。貴様のような“人間”などには脳神経を専攻する資格などない」

 弟は苦しんだ。傷ついた心を抱きしめてくれる姉がいない。

 いやされない心は父への殺意を思うこともあった。

 もちろん弟はただちに殺意を消去した。

「殺人など、人間として最低の行為だ」

 傷ついた心を修復するため、父のワイン棚のカギを針金でこじ開け、古びたボトルを盗み、飲みつぶれる夜もあった。

 飲みながら考えごとをした。

「盗みはいけない。未成年の飲酒もいけない。しかし事件が発覚しなければ罪に問われないのが人間界の掟だ。人間界は情報に支配されている。どんなに悪いことをしても、罪が情報化され、他者の脳で認識されなければ、不問になる。要するにバレなければいいんだ」

 高校を卒業すると、姉と同じ大学へ通うため、飛行機に乗った。

 父から離れられるのがなによりうれしい。ふたたび姉と暮らせるのはそれ以上にうれしい。

 空港へ着くと、出迎えてくれた姉の腕が弟を抱きしめてきた。弟は神のぬくもりを久しぶりに感じた。人間離れしたぬくもりの中で思った。

「姉こそが脳神経をきわめるべき人だ。神の領域へ踏みこむ資格を持つ人間だ」

 この考えが崩壊したのは2年後のことだった。姉の犯した初めての失敗を弟は目撃してしまう。

 神の初めてのミスは殺人だった。

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