まっ白な日本人・story76
緊張感をぶつけ合うわたしとあずさの間へランスが入ってくると、手の上にのせていたクモを下へ落としました。クモはランスの指へ糸を張ったらしく、ゆっくり落ちていきます。
「ヒヒヒ。昇ってきた時と同じ速度でヒモが飛び出たら、みりさちゃんは落下死する。みりさちゃんへわたすつもりだったから、水鉄砲は下降用に切り替えてある。引きがねを引いても、ゆっくりしかカギは出ない。梓ちゃんの体まで届かない」
「切り替えはどこでするの?」
「ヒヒヒ。この状況で教えるわけない。みりさちゃんはバカ」
わたしが水鉄砲の装置をよく観察しようとした時、手が全自動で動き、水鉄砲をランスへ返してしまいました。
「みりさ、落ちつけよ。あずさを狙っていたつもりかもしれないが、痛みを感じるのは梓になる」
わたしは梓の目を見ました。
車の流れが途切れ、川の流れが聞こえてきました。空気の流れが聞こえます。目が合うとにっこり笑う、梓の目が見えます。梓は手ににぎっていた煙草の箱を投げてきました。
受けとったわたしはすぐに投げかえしました。
「幸せくんがいるから吸えない。吸わなくてもいい。だいじょうぶ。あずさ、ごめん」
わたしのそばへ歩いてきた梓が、自分のくちびるで火をつけた煙草をわたしてくれます。
幸せくんが男らしい声を出します。
「吸えよ」
また通り始めた車の音が落ちつくのを待って、梓のくちびるが動きました。
「sub。わたしの体力がもう少し強ければ良かったのですが、生まれたばかりで、すぐ疲れてしまいます。同行できたらケンカにもならなかったのに」
「わたしが悪い。あずさはずっとがんばって情報操作を続けていたのだから、気にする必要はない」
「sub。みりさにお願いがあります」
「なんでも言って。友だちでしょう」
「sub。1度だけ、光子ミラーを使わせてください」
わたしは一瞬だけ息を飲みました。
「いいよ。友だちを信用する」
目を閉じた梓の上を車の音が通ります。
静かになったところで、梓が目を開けました。
「sub。みりさの目的、もちろん化粧品以外の部分がわかりました。気持ちの強さもわかりました。いや、正確に言えばわかりません。みりさは感情が強いです。附帯クオリアは、わたしの脳ではノイズとしてしか再生されません。とても強いノイズです。その強さを信用します」
わたしは煙草を1口吸いこみ、梓の指へ返しました。
「必ず無事に戻ってくる。煙草をたくさん買ってくる。あと必要なものをたくさん。トイレットペーパーも。トイレもいるね」
「sub。梓は小さなころからトイレをガマンするのが得意です。ランスは男の子だから、どうにかするでしょう。みりさは自分の心配だけしてください」
「そうはいかない。友だちだから」
うなずいた梓の指にスズメバチがとまりました。
「sub。念のため、ハチを2匹ついていかせます。時々ハチの目からみりさの無事を確認します。ただしわたしの情報テリトリーからハチを出すことはできません。なるべく早く戻ってください。それからこれをどうぞ」
ハチを飛び立たせた梓の手と、わたしは握手しました。ティッシュにくるまれたスズメバチのゼリーをもらいました。
ランスに手伝ってもらい、クモのようにゆっくり河川敷へ下りていきます。空中のわたしを守るようにハチが2匹、周囲を旋回します。
「sub。河川敷の外へ出たら偽装情報を解除します。周囲に気をつけてください」
小さくなったあずさの声へ向かって、水鉄砲が巻き上げられていきます。
「ハヒヒ。幸せくん、落とすよ」
代わりに、ちがう色の水鉄砲が落ちてきたのを、わたしは全自動でキャッチしました。
「ランス、なによこれ」
大きな声で橋へ向かってさけぶと、大きな薄ら笑いが落ちてきます。
「ハヒヒ。もしもの時は相手に1発撃てばいい」
「なにが出るの?」
「ヒヒヒ。秘密」
わたしはしつこく聞こうと思いましたが、車の音が激しく落ちてきたので、無言でランスへ手をふり、ベタベタくっついているティッシュをはがしてゼリーを食べ、出発しました。
「偽装情報を解除されたら、ひどい格好を周囲から見られる。気をつけよう」
「あずさはそういう意味で、気をつけろと言ったわけじゃないだろう」
豊平川の左岸道路へ駆け上がりました。ハチがわたしの上空高くへ離れます。
{ここからは声を出さずに話す。急ぎたいから走るよ、幸せくん。羊水が揺れる}
「走り出してから言うな」
{ちゃんと周囲を気にしていてね。あずさが言った意味で}
「言われなくてもそうする。問題はマンションへ着いてからだ。まちがいなく誰かいるぞ」
{わかっている。化粧品以外の目的が、“マジックPの人間をボコボコにして、ドクターSDの居場所を聞き出すこと”だって、幸せくんにも伝わっているでしょう。誰か、いてくれた方がいい}
「光子ミラーを使われる時、あずさを納得させるため、無理やりに後づけした目的だろう」
{でも本心よ。そうじゃなきゃ、あずさをごまかせない。幸せくんだって本気だとわかっているでしょう}
「目的はいいが、問題は手段だ。なにも考えがないみたいだけど、どうするつもりだ」
{なにも考えがない、って伝わっているじゃない。わたしは走るのに夢中。手段を考えるのはまかせた}
マンションまでは歩いて30分ほどのはずです。走れば10分でしょう。
「無理だな。途中で疲れて、すぐ歩き出す」
{マンションは情報テリトリーの中? 外?}
「わからない。ハチの動きが教えてくれるだろう」
100%、夜は明けています。
ビジネスホテルの壁に飾ってある電光時計が午前5時半を過ぎました。ぴょんぴょん跳ねているカラスの足が糸のように細く、骨折しそうです。マンションの2階のバルコニーからゴミステーションへゴミを投下しているおばさんが、走り抜けるわたしをにらみます。新聞配達の人がバイクに乗ろうとして横転しました。コンビニの前にすわりこんでビンのワインをスポーツドリンクのようにゴクゴク飲んでいる若いホスト風がいます。
早起きの人よりも、飲み疲れの人たちと出会うのが怖いです。アフターを終えたホステスや客がまだ歩いている時間帯です。知り合いとすれちがっても不思議はありません。
{本当は中島公園のそばを通りたくないけど、遠回りする余裕もない}
幸せくんに言われたとおり速度が落ちてきましたが、できるかぎり急ぎました。
「みりさ。ハチがとまったぞ」
急停止して、ふりかえりました。2匹のハチが電柱の腹へしがみついています。
{疲れたのかな}
「バカ。情報テリトリーの端だろう」
{意外とせまいね。マンションまでまだまだあるよ}
「山の中よりせまくなるはずだ。距離ではなく、情報密度で決まる。街の中はノイズが多すぎる」
あずさへのメッセージのつもりで手を大きくふってから走り出しました。
{イザわたしたちだけになると、怖くなってくる。マンションの近づいてくるのが、怖い}
「俺にいい考えが浮かんだ。すばらしい手段だ」
{本当?}
「油断はするなよ」
疲れかけてきたわたしの足に力が入ります。怖さは残るものの、勇気が湧いてきます。
{穴にいれなきゃ児を得ず、だよね。危険を冒してでも前に進まなきゃ。わたしたちにはタイムリミットがある}
「最初の言葉、なんかちがうだろう。うまくマンションに戻られたら広辞苑で確認しろよ」
中島公園の脇を抜け、新しいマンションと古すぎる民家が混沌としている静かな一角を曲がった時、車道の中央に、まっ白な少年が立っていたので、思わず急停止しました。
わたしをじっと見てくる少年は白すぎる肌に、白いTシャツ、白いズボン、裸足には高下駄をはいています。
少年の後ろから車が迫ってきました。車は少年へ気づかないかのように速度を変えず接近してきます。
{死んじゃう}
ぶつかる寸前に少年は真上へ飛びました。少年の下を通過した車はこちらへ向かって進んでくると、立ち尽くすわたしの体をかすめ、角を曲がっていきました。
「みりさ。どうやら少年も俺たちも透明人間になっているらしい」
少年の下駄の音がわたしの方へ高鳴ってきます。
わたしはランスからもらった水鉄砲をにぎりしめました。