橋の下の戦争・story75
慣れ親しんでいる札幌市内ですが、山の中から戻ってくると空気の硬さが気になります。空気が“ある”と気づいてしまいます。
「sub。成分がちがいます。特に臭いの構成分子が、山中とはちがいすぎます」
「ランスはだいじょうぶ? 釧路の病院でふらついたでしょう」
「ハヒヒ。もうだいじょうぶ」
「夜が明けたばかりだから、空気が1番きれいな時間。車がたくさん出てくると、もっとひどくなるよ。橋の下を選んだのは正解だったかも。川の上は風通しがいいし、空気もきれい」
わたしたちは河川敷へ下りました。周囲は80%朝になっており、ジョギング、犬の散歩、人の散歩といった定番の風景が動いていますが、鳩とスズメバチをしたがえたスッピン2名と下駄の少年は情報操作によって消されており、空気より存在感がありません。
4車線道路をわたす橋の真下まで歩きました。朝の明るさが50%程度になります。
橋は鉄骨で組まれており、鉄骨を昇っていけば、誰も来ない、誰の目にも触れないという条件を満たしたスペースが橋の裏側にありそうですが、イタズラ防止の設計になっているようで、昇るための手段は見あたりません。
スズメバチと鳩が鉄骨に向かって飛んでいきました。
梓が目を閉じます。
「sub。だいじょうぶです。汚れていますが、睡眠できるだけの広さを持つ鉄板が骨の上に組まれています」
ランスが水鉄砲を出しました。
「フヒヒ。みりさちゃんの体重でも切れないヒモ」
水鉄砲の先からヒモというより糸のようなものが飛び出しました。糸の先についていた金属のカギが鉄骨にからまったらしく、2、3度引っぱり安全を確かめたランスが水鉄砲を操作すると、糸が巻き上がり、水鉄砲をにぎっているランスの体が宙を昇っていきます。
「あずさ。ランスのにくまれ口をたたき直すチャンス。情報操作で糸を切ってしまってよ」
昇りきったランスが上から水鉄砲を落としてきました。
わたしたちは同じ方法で、順に昇りました。
糸の速度は思ったより速く、少しの爽快感と、鉄骨に頭が衝突するのではないかという不安感がありましたが、ランスが受け止めてくれました。
「ありがとう」
わたしのお礼の言葉を、幸せくんの目ざめの声が追ってきます。
「みりさ、なんだ。俺の頭が子宮の天井にぶつかったぞ」
鉄の板は畳10枚分ほども広さがあります。橋の1階下のような場所は車の通過する衝撃がまともに響いてきます。砂ぼこりが積もっています。クモなどの小虫がスズメバチに追われています。
落ちつける環境ではないですが、梓の体は砂の上にすわりこみ、煙草の煙をゆっくりただよわせています。
「はい。おはよう。はい。虫がケンカしている」
「あずさはもう寝たの?」
「ヒヒヒ。疲れていたはず」
ランスは使い終わった水鉄砲をていねいに下駄へかたづけました。
「わたしたちは情報に守られていない状態だね」
「フヒヒ。ここは誰からも見えないし、車の音が会話もかき消してくれる。別に問題ない」
「問題はたくさんあるでしょう。これからどうするかが、最大の問題」
「ヒヒハ。とりあえず休む。あずさちゃんがいないと、ボクたちは行動できない」
わたしは胸の前で、腕を組みました。
「ランスは水鉄砲が足りないままで平気?」
ランスが返事をしてくる前に、わたしの脳を読みとった幸せくんが口をはさみます。
「みりさ。バカは考えるな。単独行動は危険だぞ」
「あずさに頼りきりじゃ、いずれ苦しくなる。わたしも自分の足で歩けるようにならなきゃ」
ランスはスズメバチから守ってやった1匹のクモを、手のひらで遊ばせます。
「ハハヒ。水鉄砲がもっと欲しい。改造すれば、あずさちゃんを援護できる」
「水鉄砲もそうだし、食糧、水、まだ夜は寒いから布団や暖房器具もいる。梓だって煙草が必要。つまり、わたしたちはお金が必要」
「ハヒヒ。あずさちゃんがボクたちを消してくれたら、盗んでこられる」
「そう考えるから、あずさに頼りきりになる。あずさがいないとタクシーにも乗られないんじゃ、わたしとランスは足を引っぱっているよ。友だちなら、助け合わなきゃ」
幸せくんがまた口をはさんできます。
「ごちゃごちゃ言っているけど、みりさの頭の中は化粧品や服装のことばかりじゃないか」
「あたりまえでしょう。山の中ならともかく、ススキノをスッピンで歩けるわけないでしょう。なんとしてもマンションへ戻って、服や靴をとってくる。魚たちにエサもあげなきゃ。新しい携帯も必要。だからお金がいるの。あんたこそ、ごちゃごちゃ言わないで、黙ってなさい」
ランスがクモと遊んでいた指を止め、わたしを見上げます。
「ハヒヒ。ボクはなにも言っていない。みりさちゃん1人でしゃべっている。バカ」
「今は幸せくんとしゃべっていたの。ランス。悪いけど、水鉄砲で地面まで下ろしてちょうだい」
幸せくんがいちいちうるさいです。
「今度は急降下か。そんなに焦るな」
「焦るに決まっているでしょう。出勤時間になったら人通りが多くなる。こんな泥だらけのスッピン姿じゃ歩けない」
「ひどすぎて、誰もみりさだと気づかない。ちょうどいいじゃないか」
「黙ってなさい」
ランスが下駄から水鉄砲を出しました。
「ハヒヒ。土曜日になったら馬券を買える。競馬新聞を買うお金と、馬券を買う元金が必要。そこから先はお金に苦労しない」
「いくらあずさでも、元金なしで馬券を買う方法はないでしょう。やっぱり現金が必要だよね」
煙草を消してからボンヤリ笑っていた梓の顔がこちらを向きました。
「sub。いざとなったら姿を消して、どこかのレジへ近づけます。現金の心配はいりません」
「あずさ。起きていたの?」
「sub。緊張状態と言ったはずです。起きたらすぐに、睡眠中の記憶に入っていた音を聞けます。みりさの計画は無謀です」
「無謀でも挑戦しないと。わたしは幸せくんを自分の足でドクターSDのところまで連れていかなきゃならない。ずっと梓へしがみついているわけにはいかないでしょう。助け合える関係にならなきゃ。わたしも強くならなきゃ」
「sub。マンションにはマジックPがいるはずです。死にに行くようなものですよ」
「友だちに裏切られているし、わたしには自分のマンションしか戻る場所がない。だいじょうぶ。幸せくんがいるから、なんとかなる」
「sub。とりあえず少し眠ってください。どうしても行くと言うなら、気絶させます」
わたしはランスの手から水鉄砲をひったくり、銃口を梓へ向けました。
「糸の先に金属のカギがついていたよね。すごい速さで飛び出るから、気絶するのは、あんたの方だよ」
「sub。友だちに銃を向けるのですか?」
「友だちを気絶させるつもり?」
大型のダンプが通過したのか、大きな音響とともに、橋がグラグラ揺れました。