気絶谷・story71
「sub。起きてください」
睡眠不足の反動でぐっすり眠っていた顕在意識を、しつこく揺すぶられています。
「sub。みりさ、幸せくん」
揺れる意識を開きましたが、まっ暗で視覚情報がありません。
「暗い。どうしたの?」
「sub。まだ夜明け前です。幸せくんも起こしてください。緊急事態です」
わたしは体を起こしました。緊急事態という単語が顕在意識を猛スピードで温めます。しかし幸せくんの起こし方なんて知りません。
ランスの両側へ梓とわたしが寄り添って寝ていたのですが、布団の中は空っぽで、ぬくもりも消えかけています。
「ランスは?」
「sub。玄関の外にいます。周囲の様子を偵察しています」
「どうしたの?」
「sub。馬がいなくなりました」
闇から聞こえていたあずさの声が少しずつ見えるようになってきました。
「sub。スカートをはきかえてください。みりさのズボンがここにあります」
「馬が逃げたの? 探しにいくの?」
「sub。馬が逃げるはずありません。いなくなっただけです」
あずさの言葉がよく見えません。
「小屋の中にいるの? すぐ見つかるじゃない」
「sub。どこにもいません。早くはきかえて」
わたしは立ち上がりました。
「灯りをつけないの?」
返事もせずに、梓の体は玄関から外へ出てしまいました。
「幸せくん、起きなさいよ」
スカートを脱いでジャンプすると、声が跳ねかえってきます。
「なんだ? まだ疲れているぞ」
「緊張せずに寝ていたの? 馬がいなくなったみたい」
「臭い、ってみりさが悪口を言ったから、へそを曲げたかもな」
下らないことを言う幸せくんを無視して下半身をはきかえ、闇に慣れてきた目で歩き出しました。
玄関の扉を押すと、ランスが外壁に寄りかかっていました。
「はい。馬ちゃん。はい。馬ちゃん」
梓の声が馬を呼んでいます。
「ランス、おはよう。馬には名前がないの? 固有名詞みたいな」
「フヒヒ。ないみたい。まだ小屋の中にいる確率85%。谷へ落ちた確率は低い」
「小屋にいる? 谷?」
まだ夜は明けていませんが、さらに慣れてきたわたしの視力は闇からのわずかな可視光線情報を受信します。
馬を呼ぶ梓が中島の岸にしゃがみこんでいるのがわかります。梓はまっ暗な池に向かって、「はい。馬ちゃん」
「池に落ちたの?」
「ヒフフ。谷」
「谷?」
「フフヒ。気をつけて」
梓へ歩き出したわたしにランスが注意をうながします。
梓の隣に立ったわたしはあわててしゃがみこみました。
池の水はすっかりなくなっています。島の岸は崖っぷちに変わっており、底の見えないほど暗闇の深い谷に向かって風が落ちています。
「はい。馬ちゃん、いない。はい」
わたしはしゃがんでいるのも怖くなり、少し下がってすわりこみました。
「あずさ。出てきてよ。どういうこと?」
「sub。誰かからの強い情報がわたしたちを飲みこんでいると思われます。おそらく馬は小屋にいるのでしょう。谷もフェイクでしょう。梓は、馬が小屋の中にいないなら谷へ落ちたにちがいない、と思うでしょうが」
「誰かからの強い情報? 誰か、って誰?」
「sub。誰かとしか言いようがありません。わたしたちには大雪の施設でなにが行われているのか、わかりません」
「ランスが言っていた。大雪では田村様をしのぐ改造脳の製造を目指しているけど、完成は数年以上先になるはずで、すぐは無理。梓とあずさのように特例的なタイプでも登場したの?」
「sub。わかりません。いずれにしろ、わたしと梓の脳を操作するほど強い能力を持った改造脳です。わたしたちは谷に囲まれた小さな島へ浮かんでいる状態です」
「周囲がぐるりと谷なの?」
ランスが近づいてきました。感情がないだけあって、不安定な高下駄で崖っぷちぎりぎりまで寄ります。
「フヒヒ。もしもフェイク谷へ落ちたら、どうなるの?」
「sub。落下しているという錯覚を情報としてあたえられたら、潜在意識はショック絶命を恐れますので、顕在意識を封鎖します。つまり気を失います。気を失った者に対する情報操作を相手から解除されると、そのまま池に沈んでいくと思います。そして溺死します」
「ヒヒヒ。落ちると死ぬなら、フェイクの谷とも言いきれない」
わたしは名案を思いつき、口を開こうとしましたが、幸せくんからバカにされました。
「みりさのバカ。1人が池に沈んだら、ほかの2人が助けたらいいという問題じゃない。情報は1人々々へ個別に出されているはずだぞ。他の2人は谷へ落ちて見えなくなった友だちに、お別れを言うしかできない」
{バカで悪かったね。そんなに頭がいいなら、情報を出してきている相手を打ち破りなさいよ。情報で強い台風がやってきて、谷へ吹き飛ばされたら死んじゃうよ}
ランスが石ころを谷へ投げました。石はすぐに黒く消えていきます。
「ヒヒハ。耳を澄ましても水の音がしない」
「sub。視覚だけではなく、聴覚、嗅覚、すべて操作されています」
わたしは一応確かめました。
「あずさ。脳を操作する時は1つの情報をみんなの脳へまとめて出すの? それとも1つ々々の脳を狙い撃ちするの?」
「sub。無差別に出す場合もありますが、周囲のすべての生物が対象になるため大きなエネルギーを要求されます。これだけの情報量ですから、みりさ、梓、ランスの3人だけへ個別に出しているでしょう。わたしと幸せくんは母体が受けた光子を共有するしかありません」
「みりさのバカ。そう教えたじゃないか」
生意気な幸せくんへ言いかえそうとした時、ランスが水鉄砲をかまえました。
「フヒヒ。火事」
小屋の屋根が赤く揺れ始めました。
あずさの敬語が早口になります。
「sub。フェイクじゃないです。火です。放たれました」
火は軽快な勢いで、100%木製の小屋の屋根を火色に塗りつぶしていきます。照らされる周囲では谷の黒がより黒く、より恐ろしい色へ変貌しています。
「フヒヒ。誰かが近くにいる。ボクたちを殺そうとしている。銃で狙うための明かりが欲しかったのかもしれない」
にぎりコブシくらいの火の粉がものすごい速さでわたしの足元へ飛んできました。こんなのが顔へ当たったら死んでしまいます。
火勢は屋根から壁へ下りてきました。
「フヒヒ。火の回りが速すぎる。誰かが壁へ油細工したのかもしれない」
ランスが水鉄砲を小屋の玄関へ向けます。
「水鉄砲なんかじゃ消えない。燃えるか、撃たれるか、落ちるか、どれかしかないみたい」
わたしは髪を指でとかし、整えました。目をこすり、服のしわを引っぱります。
「せめて歯をみがきたかった」
ランスの水鉄砲から、大きな音が飛びました。鳩を捕獲した時の吹き矢が出たようです。
玄関の取っ手が壊れたらしく、屋内の熱エネルギーに押された扉が開きました。
あずさの声がそばへ寄ってきます。
「sub。扉が開いたおかげで、なんとか助かるかもしれません。だけど、みりさ。ごめんなさい」
あずさの謝罪が聞こえた瞬間、子宮をにぎられるような感触が起きました。
わたしは田村様に初めて会った時を思い出しました。幸せくんが気絶した感触と同じです。
「幸せくんになにをしたの?」
梓の笑顔が炎をキラキラ反射しています。
「sub。本当にごめんなさい」
わたしは自分の脳をにぎられるような感触をおぼえましたが、きちんと認識する前に気を失いました。