人間の思いこみ・story69
ペットボトルのフタを閉め終えたスズメバチを見つめながら、わたしは興奮しました。
「わたしもハチを操作できるようになる?」
「sub。無理です」
きっぱり言ったあずさの肩に1番大きなハチがとまりました。ハチの上に別のハチがとまり、さらに上へ1番小さなハチがとまると、全員でわたしを見つめてきます。
「sub。田村様が、池を探索しなかった理由と、みりさからうたがわれ出したとたんに襲ってきた理由は一緒です。田村様は脳の力関係で負けたくなかったのです」
ランスが目を開けて首をひねります。ランスにピンと来ないことは当然わたしにもわかりません。
「sub。脳という器官は冷静ではありません。情報を得た時、情報へ感情の附帯するケースがありますが、この感情附帯が起こらなければ脳は常に冷静な情報処理を行えたでしょう。神もしくは超高性能のスーパーコンピュータになれたはずです。しかし我々は人間になりました。人間の脳は感情によって大きく左右されます。感情附帯は潜在意識にふくまれる機能です。顕在意識で感情的にならないようにしようとしても、それは感情の附帯クオリアを無視しようとするだけのことで、潜在意識の感情附帯をやめさせる行為ではありません。脳は感情を情報へ附帯させることによって自らをリフレッシュできます。言い方を変えると、リフレッシュのためだけに感情附帯という機能があります。リフレッシュ、クリーニング、安定化、など当てはめる言葉はどれでもかまいません。また感情の種類はこの話の場合、特に問いません。怒りでも悲しみでも笑いでも、感情附帯は脳にとって良い機能です。またまた言い方を変えると、情報の冷静さを失う悪い機能でもあります。良い感情にしろ、悪い感情にしろ、脳は感情を附帯した時点で情報にノイズをあたえていることになります。脳の力関係の大小は、力の差が忠実に反映されるわけではありません。情報に附帯する感情情報がノイズとなり、情報を狂わせるからです。少し抽象的になってきたので、具体例を挙げましょう。この例は梓の記憶に残されている“世間”の様子から挙げるものなので、わかりやすいかと思います」
あずさは水を少しだけ口へふくみました。コップを置いた手がすかさず煙草へ伸びます。
「sub。血液型Aの人は周囲から神経質に見えるそうです。B型はわがままに見え、O型は大らかに見えるらしいです。冷静に考えても、血液型が潜在意識による無意識行動選択へ影響をあたえるはずがないのですが、そう見えてしまうのです。これは情報へ附帯するノイズがあるからであり、この場合のノイズは“思いこみ”という感情です。感情と思いこみはちがうだろう、とお思いでしょうが、思いこみは感情の1つです。思いこみと感情を切り離す定義こそが思いこみです。思いこみは脳の安定のために必要な感情なのです。“A型は神経質”と思いこむことで脳は安定します。相手がまったくわからないより、なんとなくわかった方が脳は安定するため、“思いこむ”のです。たとえ情報を湾曲しようとも、脳は安定の方を重視します。結果として脳は情報を冷静に判断する器官ではなく、自分の状態が安定すればそれで良い、という器官になりました。神でもコンピュータでもなく、人間である由縁がここにあります。同じ原理で、世間では“テレビや新聞”をうたがいません。冷静に考えると、あきらかにおかしい報道も多々あるのですが、脳は冷静に真実を探求するよりも、自分の安定を優先します。後日の訂正やお詫び欄が非常に小さいことへ憤るどころか、むしろ安心します。テレビや新聞には完璧でいてほしいのです。完璧であれば、信じることで安定できます。“神風が吹いて原子爆弾に勝てる”などとバカバカしいデマを流されようとも、脳は信じようとするのです。信じてしまうのです」
ランスがまた目を閉じました。
幸せくんがつぶやきます。
「ずっと以前に、みりさも言っていたな。脳は自分に都合のいいことを思いこむ、って」
{咲藤さんからの受け流しを思い出しただけ。原子爆弾なんて知らない}
梓の肩にいたハチが煙に追われるように飛び立っていきました。
「sub。わたしたちは脳のスペシャリストですから、脳の特性を最大限に利用します。“田村様は性能の高い改造脳だ”と信じこんでしまうと、わたしたちの脳は田村様が発してくる光子情報を受け入れてしまいます。受け入れた方が脳は安定するからです。だから田村様は初めて会った相手の前で大きなパフォーマンスを見せつけます。相手の脳へ、自分の脳がテレビのような存在だと植えつけるためです。逆に自分より優秀である可能性を持つ改造脳へは近づきません。相手の優秀さを脳が認識してしまうと、情報戦で勝てなくなるからです。強弱が曖昧なうちに離れてしまえば記憶が薄れることで相手の強さを払拭できます。脳は常に自己中心的に作用しますから、都合の悪い記憶を消すのです。田村様がわたしたちの池へ接近してこなくなった理由をわかっていただけたと思います。また田村様がみりさの疑念へ気づいたとたんに襲ってきた理由はおびえにあります。田村様は“ランス野郎の話により、みりさ野郎は俺様より優秀な存在が近くにいると知った”と気づきました。植えつけた威厳が損なわれることにおびえ、すぐに襲ってきたのです」
ランスが目を開けると、下駄を鳴らしました。
「ヒフフ。確かに田村様はおびえていた」
梓がランスの足音へ合わせて靴を鳴らします。あずさが話している間、梓は話しません。しかし煙草を吸ったり、足を鳴らしたり、仕草は梓のものと思われます。無邪気な仕草から冷静な言葉が放たれる光景は異様にも見えます。靴音を合わせたまま、あずさの言葉がランスを向きます。
「sub。情報戦争で必要なのは田村様へおびえないことです。田村様だけでなく、わたしたちをふくめたすべての改造脳を恐れないでください。ランスが冷静なデータ分析に優れているのは感情が薄いからです。思いこみの感情も薄いですから、通常の人より改造脳に対する恐れは小さくなると思いますが、田村様からの情報を防げなかったように、わずかでも恐れると情報を防ぎきれません。戦争が終わるまで、より厳正な感情コントロールを行ってください。ランスならできるはずです」
「フヒヒ。笑うしか、しないようにする。思いこみ、しないようにする」
ランスの薄ら笑いに合わせて、梓が笑顔を揺らしながら、わたしを向きます。
「sub。みりさには幸せくんがいます。みりさに対する幸せくんからの情報は有線のため、神経作用の主導権をにぎり続けることができます。しかし外部からの光子情報はみりさが得るものを共有するしかありません。見たり聞いたりしたものを、無条件に信じたりせず、うたがってください。テレビ報道や血液型推測よりも、自分の信念を信じてください」
自分を信じる。
わたしはこの戦争において、なにが自分なのか考えます。情報戦争と言われてもピンときません。わたしには改造脳の世界がまったく理解できません。自分のするべきこと、いるべき位置がわからないです。
「あずさ。わたしは自分を信じられないと思う。目に入ってくるものをふりはらえない」
「sub。その思いこみがいけないのです。みりさには強い自分があるはずです。田村様と戦って2度も勝ったでしょう。自分を思い出してください」
わたしは田村様の前に出た自分を思い出しました。幸せくんとともにトラックのそばの幻想海で戦いました。河岸では銃撃戦を交わしました。
「夢中だったけど、でも向き合えた。今考えると不思議」
「sub。気持ちをよく思い出してください」
子宮の重みを感じます。9週間かけて少しずつ重くなってきたため慣れがあるのですが、あらためて子宮へ集中すると幸せくんの体重を感じられる気がします。
「幸せくんをドクターSDのところへ連れていきたい気持ちが強くある。幸せくんがいてくれるから心が強くなれる」
梓の笑顔が大きくうなずきました。
「sub。みりさはだいじょうぶです。自信を持ってください。感情のない神やコンピュータなら、脳の性能が結果へ率直に反映されるでしょう。しかしわたしたちは人間です。脳の性能の差を思いこまず、自分を信じつづけることによって活路を見つけられます。田村様をすら、しのげます。自分を信じることも、また感情なのです」