梓とあずさ・story67
裸馬の首にしがみつきながら山を降りた梓とあずさは札幌南部の住宅街を歩き、スーパーマーケットに着いたが、残念ながら盗みによる食糧などの確保はうまくいかなかった。
あずさは馬の姿を隠すため周囲に対する光子情報を操作するのが精一杯で、梓の手を動かして万引きする余裕はなく、梓が自発的に万引の動作をできるはずはない。のんびりした動作で、店頭にならべてあった卵6つ入りの大安売りパックを1つつかむのが精一杯だった。
帰りの馬上で梓が卵のパックを落とさないよう、あずさは握力の筋肉にも気をつかった。
山麓まで戻ってから、情報操作を解除したあずさはクタクタな口調で言った。
「sub。梓。頭の中で、煙草、煙草、と口ずさみ続けるのはやめてください。聞いているこっちが疲れます」
煙草はあの人に持っていかれたがライターだけ残されていた梓は小さな炎で卵をあぶった。
「はい。ゆで卵。はい」
馬から下りた梓が卵を割ると、出てきた生卵が手のひらに浮かんだ。飲みこむと、生卵はぬるぬる胃へ落ちていく。
「sub。とりあえず栄養にはなります。もう1つ食べましょう」
梓はもう1つ生卵を飲み、さらにもう1つ割った卵を馬へ見せたが、気に入ってもらえなかった。
「はい。鳩がいる。引っ越してきた」
あずさはスーパーの駐車場で、通りがかった鳩を、馬と一緒の情報扱いにしてしまった。つまりこの鳩は梓や馬と同様に周囲から見えないまま山麓までやってきたのだが、馬の背中にとまったまま見えないはずの鳩をずっと追いかけてきた6羽の鳩が空から降りてくると、次々馬上へとまった。
「はい。鳩がたくさん引っ越してきた」
「sub。視覚情報をふさがれても、鳩は耳がいいから聞こえるのですね。勉強になります」
あずさは謙虚な脳で、次の手を考えた。
あの人は「木の小屋から出発しろ」と言い残した。言葉の意味を確かめるべきかもしれない。
「sub。田村様にはもう負けません。池へ戻りましょう」
朝からなにも食べていない馬へ山麓に生えている雑草などを食べさせてから、再び雪山へ踏みこむ。
マジックPの男たちが川辺を上ったり下りたりしている横を通過する。
太陽は午前11時のあたりまで昇っており、残っている冬を溶かしてしまいたいように、まっすぐ山を照らしている。川の水は冷たそうだが、馬は汗を湯気に変えながら進む。
池へ到着した。雪だるまも田村様もいない代わりに、池の中島へ木の小屋が建っていた。今朝はなにもなかったはずなのに、丸太組みの三角屋根が雪をのせている。小屋には窓がなく、煙突もなく、2階もない、無愛想な造りだが、裏側へ回ると、丸みを帯びた扉がついていた。
馬に鼻面で扉を押させると、一般的な居間ほどの部屋があり、テーブルが4つの椅子に囲まれている。木で作られた飾りだけの暖炉があり、小さなランプが天井から下がっている。
馬から下りた梓が木製の床を踏む。
「はい。火を落とすと火事になる。はい。煙草を吸いたい」
馬と鳩も、すべて室内へ入ったのを見とどけたあずさは梓の手を動かして扉を閉め、部屋の奥へ歩いた。木でできた壁には扉が1枚あり、開けると奥にも木製の部屋がある。洗面台やカーテン仕切りのシャワースペース、同じくカーテン仕切りの便器があり、便器やシャワーの上には換気口へつながっているのか、丸い穴が開いている。
便器の隣に流し台があり、ガスボンベのつながったガスコンロもある。
流し台のそばにダンボール箱が3つ積まれていた。
ダンボール箱を1つ開けると、パンや卵や生野菜などの食糧、水の入ったペットボトル、缶詰があった。
2つ目にはタオル、ティッシュペーパー、衣類、爪切り、はさみ、筆記用具、食器、灰皿と煙草などの生活用品がぎゅうぎゅう押しこまれており、3つ目のダンボール箱は生の人参とりんごでいっぱいだった。
手紙がある。あずさは父親の筆跡を始めて見た。
「この池は改造脳を持つ者の聖域だ。聖域などと大げさな表現は必要ないか。
率直に言おう。山の中の単調な風景を歩いてきた者が池へ到着すると、水の美しさに心を奪われる。したがって視覚情報への依存度が大きくなる。風に揺れる笹が無意味な音を立てるので聴覚はしぼられる。木の小屋で暮らす者は周囲へ視覚情報操作だけをおこなえば、池の存在、中島の存在、木の小屋の存在、好きなように表現できる。
事情を知る改造脳者がやってくるかもしれない。大雪の施設から逃げてきた者が市内にいるらしい。
しかし改造脳者同士の力関係は脳の容量と経験値の積で決められる。
君たちは大雪から来た者に負けないだろう。大雪から来た者と会う時には力の差を示してやるといい。相手は力の差を認識し、以降君たちからの情報にしたがうしかなくなる。脳は劣等感を持たされた脳からの情報を無条件に受け入れてしまうという性質を持つ。学校の先生が授業で言ったことを無条件で信じるのと同じだ。いや、君たちに学校の話をしても伝わらないか。
この池は君たちの聖域になるということだけ伝わればいい。木の小屋で暮らしながら外部へ視覚情報操作を行っていれば、安全だ。
食糧は10週間分用意してある。10週間経つと胎盤がつながり、母から胎児へのエネルギー伝達の容量が増す。胎児はより強く速く正確に情報操作をおこなえるようになる。それから馬に乗って出発しなさい。ドクターSDを探しなさい。
君たちに地球最大の幸運が訪れることを願っている。
煙草を用意したが、胎児のことを考え、なるべく控えるように」
手紙を読むあずさの視覚情報へ白い煙が伸びてきた。
梓は起きてからの1本目をいつもより深く吸いこむ。
「はい。漢字が多い。煙草を用意した。はい。地球の煙草」
あずさは心をこめて、梓へ伝えた。
「sub。梓、10週間、馬の世話をできますか?」
「はい。梓、馬を洗う」
「sub。確かに梓は馬の世話が上手です。料理や洗濯はできますか?」
「はい。目玉焼き。パン。ビスケットは嫌い」
小屋での生活が始まった。
梓は馬の世話を楽しそうにこなし、不器用に料理をおこない、器用に煙草の火をつける。雪解けの山へ散歩に行くと、樹木の皮をめくり、樹の中で冬眠しているスズメバチの女王をつかまえ、小屋に連れてくる。スズメバチの女王は春になると1匹で巣を作り、巣の中で大量の卵を産み、自分たちの聖域を作る予定だったのだが、梓が小屋へ8匹の女王蜂を連れてくると、彼女たちは天井に大きな巣を1つ完成させ、卵を産みつけ、ふ化を待ちながら仲良く暮らしていた。
あずさは周囲への視覚情報を単調にした。池から川を切り離し、木の小屋だけでなく島も消し去り、池だけがポツンと浮かんでいるような風景にした。
4月になり、気温が高くなったので、鳩とスズメバチの飛行実験を開始する。脳が2つある梓とあずさは経験値の上昇も早く、光子ミラーなどをすぐに使いこなせるようになった。鳩とスズメバチの優秀な視覚が得た情報をミラーで知り、飛行していく方向を指示する実験は成功した。
鳩からの情報で、田村様がすぐそばへ根を下ろしたことを知り、偵察をくりかえす。鳩は高下駄をはいた少年に討ちとられ、残り2匹まで減った。少年は毎日のように池へ現れ、周囲や水中を観察していく。観察眼の鋭さをあずさは警戒したが、少年は田村様と一緒にいない場合鳩を撃たず、あずさへのメッセージのように鳩の視界へ水鉄砲を掲げた。
妊娠4週へ入った。あずさは胎児としての成長を順調に果たしている。
妊娠の自覚などない梓は声だけのあずさを幽霊の友だちでもできたかのように接していた。あずさが心配していたのは、疲れをとるために子宮の中で緊張睡眠をしている間、梓がおかしな行動を取らないかどうかだった。スズメバチを指に乗せて遊びながら煙を吐く美しい女性は、便器の中へ座ってみようとしたり、馬の性器を見ながら下着を脱ぎ始めたりする。馬の巨大な力で子宮を突かれたりすれば、あずさはすぐに死んでしまう。
しかし梓の顕在意識が妊娠を認識していなくても、潜在意識は母親だった。
雪の解け始めた笹薮で、馬とならんで歩きながら散歩していた梓は濡れた土で足を滑らせ、斜面をごろごろ転がった。自然に子宮を抱きしめる姿勢となった梓は「はい。痛くない。痛くない」
笹の束に引っかかり、止まった梓は「はい。平気。はい。痛くない」
言葉は完全に子宮へ向けられていた。
津波のように揺れた羊水の中でぐるぐる目を回していたあずさは、梓が帰途を慎重に踏んでいくのを感じた。
小屋へ帰ると、温かいシャワーが子宮へ入念にかけられた。
夕食のパンをかじり、煙草をくわえながらテーブルの脇へ布団を敷き、梓は子宮を抱きしめるようにして眠った。
「はい。友だち。はい。手紙書いてください」
あずさは翌々日、いつもの少年が若い女性を池へ連れてきたことに気づいた。女性は鳩の視線を意識しながら、子宮をなでる仕草を見せた。
鳩とスズメバチの視覚はマジックPの人間が大量に山へ入ってきたと知らせてくる。
あずさは梓に相談した。
「sub。わたしは梓へ手紙を書けません。本物の手紙を書いてくれる友だちを招きますか?」
「はい。割り算して、煙草を分けてあげる。はい」
少年と女性が田村様と戦い始めたことを、鳩が報告してくる。
10週間待てなかったことへ不安はあった。しかし仲間を得られるよろこびは不安を大きく超えた。
1羽だけ優雅に白い毛なみを持つ鳩の足首へ伝書筒を結び、ダンボール箱の1番下に埋もれていた筆記用具をとり出した。
「はい。ポストさんへ手紙を書く」
「sub。ポストさんじゃありませんよ。人間から人間へ、本物の手紙です」
梓とあずさは、初めての友だちへ手紙を書いた。