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梓とあの人・story65

 梓は脳の最終手術が終わってから、髪を伸ばし始めている。まだショートヘアの中でも1番短いレベルまでしか伸びていないが、脳を守り、女の色を守り、肌の白さを引き立たせる。

 煙草を消すと裸のまま眠ってしまった梓の耳へ、あの人は言った。梓が長い言葉を認識するとは期待していない。梓の記憶にきざまれるよう、胎児へ完全に伝わるよう、ゆっくり話した。

「今までに10人の女性を妊娠させた。10人の胎児へ日高で経験したことを伝言した。少し大げさに話した面もあったが、性格だからしょうがない。でも君には大げさに話しても意味がない。お母さんの脳には日高の記憶が残っているからね。数時間で顕在意識が急成長したら、お母さんの脳から日高の真実と、この言葉を引き出すといい。そしてお母さんを守ってあげなさい。脳を改造されたお母さんはあと10年ほど経験値を得れば、人間として独立できるレベルにまで顕在意識の認識力が成長するが、それまでは1人じゃ生きられない。しかしお母さんの味方をしてくれる人は、空中に誰もいない。味方は君だけだよ。だが君は空中へ生まれてしまえばすぐに死んでしまう身だ。成長しきった顕在意識は羊水と空中のギャップに耐えられないから。10年、羊水の中にいろとは言わない。10カ月かけて、お母さんと君が生き残る策を見つけろ。地球はあきらめたら終わる星だ。あきらめなきゃ、かなう星だ」

 深夜3時、梓を起こしたあの人は急ぎ足でホテルを出るとタクシーで北へ向かい、15分ほどで下車すると乗用車へ乗りかえ、今度は自分で運転しながら南へウインカーを出した。

 梓は起きてから1本目の煙草が好きだったから、禁煙のタクシーから灰皿のある助手席へ移ると、すぐに火をつけた。

 あの人は数時間前に突いたばかりの、梓の子宮を見た。

「煙草はやめた方がいい。羊水が冷たくなる」

「はい。煙草を入れると、水はお湯になる。はい」

「煙草を吸うと血中酸素が奪われて、体は冷える」

 南へ向かった車は市街地を抜け、郊外を抜け、山間部へ入り、国道から脇道に曲がり、夜明け前の小さな納屋に近づくとヘッドライトを消した。

 小さなロウソクが照らす納屋の中にはパンや生の人参や札幌市内地図やガソリン臭のする金属タンクが置いてある。

 梓は壁に寄りかかってすわると、目をこすった。

「はい。まだ夜」

「眠いのか。確かに俺たちは疲れるな。この脳はひどいエネルギーを使う。セックスなんかするもんじゃない」

 あの人は梓の仕草へ目をこらした。

「これから君たちはどうなるんだ。変異脳を遺伝した胎児を妊娠している母もまた変異脳だ。過去にマジックPはこのモデルで失敗している」

 梓は目を閉じた。

 あの人は梓の耳を見ながら言葉をきざんだ。

「俺はもうすぐ死ぬ。生き延びる自信がないので死ぬ。他人の本心を感じることのできる人間が住める場所は地球にない。最後に梓へ会えてよかったよ。君のお母さんの本心はすばらしい。ウソをつかない。隠しごともしない。鼓動がこれほど安定している人間はいないよ」

 あの人は納屋の中に積まれているワラを、すわったまま眠った梓の体へかけた。

「粗末な布団で申しわけない。俺はススキノへ戻る。もうすぐ君の顕在意識が起動するだろう。お母さんの記憶をすべて読みとり、どう行動するべきか判断するだろう。お母さんはマジックPに捕縛されようと、殺されようと鼓動速を変えないはずだ。それではいけない。捕まっては絶対にいけない。君が守ってやるんだ」

 車のキーをにぎりなおしたあの人は梓のポケットから煙草の箱をとり、1本をロウソクで点火した。

「君の脳の進化していく様子が伝わってくる。人間の体は素晴らしい。子宮の中で魚類として芽吹き、両生類から爬虫類、哺乳類と急速に進化し、ヒトの姿形になる。生命は奇跡的に素晴らしい。地球は素晴らしい。信じられないほど素晴らしい。君の脳はごくふつうをさらにしのぐ速度で進化している。母子ともに変異脳なら、俺が感じている以上に繊細なクオリアが発生するはずだ。外界で経験値を積めば、光子情報の操作すら可能になるほど進化するかもしれない。マジックPが試作モデルでは見つけられなかった“母子ともに変異脳タイプが生き延びていける道”を見つけるはずだ。見とどけたい気もする。君のお母さんの美しい本心となら暮らしていける気もする。だが俺と君たちは別行動をとるべきだ。一緒にいては2人とも捕まる確率が高くなる。誰かがマジックPを壊滅させなきゃならない。誰かが生き延びなきゃならない。俺は胎児を増やしてくる。少しでも確率を増やす。地球を信じて、がんばってほしい」

 一気にしゃべり続けるあの人の煙草は吸われることなく灰崩れしていく。

「地球、なんていう大げさな言いまわしは今の君たちに必要ないね。具体的な道を言う。納屋の裏に川がある。川づたいに山へ登っていくと小さな木の小屋があるから身を隠せ。木の小屋までは必ずたどり着けると保障する。そこからドクターSDを目指すんだ。君たちが生き延びるにはドクターSDの力が必要だ。ドクターなら君たちを救える。たどり着いてほしい」

 あの人の煙草は線香のようにただ燃えただけで消えた。

 あの人がロウソクを消し、アクセルを踏んでから30分後、大きな夜明けがやってきた。全容を見せながら昇ってきた太陽は納屋の東壁に唯一ある小さな窓から射しこみ、梓の頭を照らした。短い黒髪が太陽のエネルギーを吸収し始めたころ、胎児の潜在意識はダウンロードの速さで母の記憶を読みとっていた。

 胎児の顕在意識が完全に目ざめ、最初に感知した外部情報は朝日の中を納屋へ迫ってくる生物の足音だった。情報は母の耳からやってくる。足音は複数あり、いずれも母の記憶にある足音だったから、相手がなにか判別できた。

「梓」胎児は母を呼び捨てにした。

「梓、起きてください」言いながら母の潜在意識へ介入し、まぶたをこじ開けた。

 梓は目をこすり、煙草を探した。

「はい。煙草がない」

「煙草はさっきの人が持っていきましたし、煙草を吸っている時間はないです。逃げましょう」

 梓は周囲をきょろきょろ見まわした。

「はい。誰?」

「梓。わたしを確認している時間はない。立ち上がってください。わたしはまだ産まれたばかりで、梓の運動機能をコントロールする自信がありません。どうか自分の足で立ってください」

「はい。誰?」

 胎児は焦る気持ちをこらえて、順序を踏んだ。

「わたしは梓の胎児です。と言っても胎児なんて言葉わからないですね。わたしは梓の中にいます。第二の梓です」

「はい。あなたも梓?」

「2人とも梓じゃややこしい。わたしは梓のsubのような存在です。梓が逃げるお手伝いをします」

「はい。あなた誰?」

 納屋の扉がきしんだ。足音を立てて迫ってきた体が扉へ体当たりを始めている。

 胎児は焦った。

「じゃあ、名前をつけてください。そして早く逃げてください」

「はい。あなたの名前は梓」

「それはダメです。同じ名前ですから」

「はい。じゃあ、あずさ」

 梓がちょっとだけイントネーションを変えた時、窓から射しこんでいた朝日がさえぎられ、男の暗い目がにらみつけてきた。

 胎児は早口になった。

「もう、あずさでいいです。だけどわたしは梓ではなく、梓の胎児、いやsubですから、おぼえて。とりあえず走って」

 梓はようやく立ち上がったが、1つだけの窓からにらまれ、1つだけの扉を体当たりされているので走る方向がない。

「はい。中をぐるぐる走る」

「ダメです。扉の反対側の壁が腐食してきています。何度も体当たりして下さい。壁を破って川へ飛びこんでください」

「はい。誰?」

「sub。梓のsubです」

「はい。あずさ。はい」

「sub。ようやくおぼえてくれた。ようやく扉が破れる」

 体当たりされていた扉が破れ、1頭の馬がすごい勢いで飛びこんできた。

「sub。よけてください。馬は自分を止められず、まっすぐ壁を破ってくれます。後に続いて」

 あずさが言い終わる前に馬は梓の前を通過すると、反対側の壁をまっすぐ突き破った。馬が壁を突き破る前に、梓は馬へ飛び乗っていた。

「sub。梓、川」

 裸馬の首にしがみついている梓が腹を蹴ると、馬は川幅を跳んだ。勢いのままに高い樹々と残雪におおわれた山の中へ走りこんだ。

 あずさはじゃぶじゃぶ揺れる羊水の中から馬の体内を瞬速で理解し、推理した。

「sub。馬はお腹をすかせています。納屋の状況と現在の状況にとても興奮しています。馬は以前、納屋に飼われていました。飼い主が夜逃げしたのか、野生へ放し飼いにされました。寝食のために納屋を利用していましたがさっきの人に場所を奪われてしまいました。しかしさっきの人は人参をあたえながら、馬と仲良くしていました。昨夜は扉を閉められていたため山で寝ましたが、お腹がすいたので朝食をもらいに来ました。しかしさっきの人がいないので、混乱しています」

 梓は顕在意識が傷ついているためなにも認識しないが、潜在意識は生まれた時から通常だった。記憶のヒダには見聞してきた情報のうち、生きるために有効と自動判断された物がすべて保存されている。梓には認識できない記憶だが、あずさには認識できるため、記憶の知識に基づいた推理が可能になる。

 梓が認識しなくても、梓の潜在意識は全自動で身を守る行動をとる。裸馬をあやつりながら、雪の残る山奥へ進む。

 追っ手は殺すわけにいかない梓へ発砲できない。山中で馬より速く走る手段もない。すでに見えなくなっていた。

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