腹ちがいの兄妹・story64
梓が煙草を吸い終わるころ、車は山中へ入った。
砂利道はやがて行き止まりになり、秋へ向かおうとしている色あせた緑が車を足止めした。
梓は無意識に外へ出ようとしたが、ドアは動いてくれない。
「ドアは中からも外からも開かん」
男はエアコンの勢いを強めると、梓の子宮のあたりを殴りつけてきた。
梓の顕在意識は完全に停止した。
潜在意識は股間が濡れたり、太ももが汚れたりという肌からの情報を記憶していく。エアコンからの風に向かって汗を発しながら体温調節する。
しかし梓自身はなにも感じなかった。
なにがどうなり、どこをどう移動したのか、まったくおぼえていないまま、顕在意識が戻ると、室内にいた。
12畳ほどの部屋にはテレビやポットやコップの置かれているテーブルがあり、窓がなく、天井が高い。天井には白い照明光と大きな空調設備の吹き出し口があり、監視カメラが6箇所から梓を見ている。
黒く鉄光りするドアらしき物が1枚、ベッドの対角線上にあるが、ノブや取っ手がついていない。
梓は立ち上がり、部屋中をくまなく見て歩いた。床にはじゅうたんが敷かれており、素足に心地よい毛なみだった。服も入院着のような素っ気ないデザインに着替えさせられており、何気なく頭へ手をやると髪の毛の感触が消えている。
だが部屋の様子も自分の髪も、梓にはどうでもよかった。
「はい。灰皿がない」
この日から12年間の禁煙生活が始まった。窓がないのでスズメバチも入ってこなかった。守ってくれる物を失った梓の脳と体はマジックPの実験体として何度も麻酔を浴びることになる。
マジックPにとって梓の脳は注目の的だった。日高では乳児を使った第二期実験に失敗した後、施設最高責任者を替えて第三期実験にのぞんでいた。5人の実験体が対象だったが、顕在意識が破損しているため自己の発生しない梓は最重要視されていた。自己がなく、ただ流されていくだけの生活を基本とする人間はマジックP理想の改造脳者になるはずだった。
日高の新しい最高責任者ドクターⅡも梓の資質を高く評価していた。
「マジックプランが成功するかどうかは、このバカと俺しだいになる」
梓の脳は入念な準備をされた後、何度も手術を受け、改造脳に変えられた。
長年の経験と緊張状態によってのみクオリア化されるはずの繊細な光子情報を、常にクオリア化してしまう改造脳。同時期に同じ手術を成功された“あの人”を含む他の4人の実験体は今まで感じたことのない質感と戦い始めた。
しかし梓の日常はほとんど変わらなかった。顕在意識の認識能力が傷ついている梓は発生する繊細なクオリアを認識できない。つまり今までと質感が変わらない。わずかに“今までとちがう”という質感はあったが、ちがうという質感があるだけで、ちがいを認識するのは無理だった。
ドクターⅡは梓の術後検査が終わると、自己がない実験体の顔を見ながら祝杯をあげた。
「大雪で指揮をとっていたドクターSDは自分たちでコントロールできない化け物を作ったらしい。化け物の能力は経験値によりさらにアップする。大雪の施設は自分たちで作った化け物によってつぶされる。山脈の対決は日高の勝ちだ。経験値を積むことによって他の4人は自分自身に耐えきれなくなる。放っておけばおそらく自決するだろう。しかしおまえは経験値によって、認識能力がようやく正常なレベルに達する。正常になり質感が変化してもおまえなら耐えられる。おまえには自己がない。自己がなければ質感が変わっても受け流せる。現にどんな状況へ置かれても顔色1つ変えずに暮らしてきたはずだ。そうだろ梓」
梓は手に持たされた紙コップの水を飲み干した。
「はい。水の味がする」
ドクターⅡは、白い紙コップへ注ぐと血のように見える赤ワインを飲み干した。
「10年後、従順な奴隷になり、マジックPの最初の最終兵器になる。おまえは幸せな女だよ」
他の4人の銃殺はドクターⅡの計算内だった。梓の術式のための実験体と呼んでもいいくらいの存在にしか思っていなかった。やがて田村様のような暴君となるか、自己に耐えきれず自決するか、いずれにしろマジックPの役には立たない。ならば殺した方がいい。
銃殺劇の日、5人の実験体が暮らす各ルームへ武装した施設員が1人ずつ配置された。梓がすわっていたベッドへならんで腰かけたのは、梓を牧場から施設へ連れてきた男だった。他のルームに配置された4人の同僚とちがい、男の任務は実験体の射殺ではなく、万が一の時、梓を守り抜くことだった。
男は右目が細く、左目がさらに細かった。雑な言葉づかいをしているわりに、女の横へすわると鼓動が乱れてしまう。好きな女であればなおさら純情な鼓動が鳴る。
細目の男は19年前に民族衣裳店で見た16歳の梓へ心を奪われていた。23歳の梓を山中の車内で犯し、感情はより大きくなった。以後12年、男と梓は同じ建物に暮らし続け、男は梓のベッドの位置も就寝時刻も把握していたが、絶対に手を出すことは許されなかった。
梓はドクターⅡの、つまりマジックPの最重要人物だ。まちがいを起こせば自分の命はない。
極限のガマンを強いられると、人間の感情はふりきってしまう。
だから“あの人”の脱走劇が始まった時、細目の男は自制できなかった。潜在意識に脳を支配されると、人間の行動は無心の状態となり、ほぼ完璧な選択をする。
廊下から細目へ向かって声が飛んできた。
「緊急事態だ。脱走者を全員で追ってくるから、おまえは梓から目を離すな」
すでに田村様とランスに逃げられているマジックPは“あの人”の脱走を絶対に阻止しなければならない。
施設の人間はすべて雪山へ散った。
梓はたとえ1人で放置されても逃走を思いつく女ではないから、見張りは1名だけでいいという判断は正しかったのだが、結果的に無人の方がよかった。
「一緒に逃げるぞ」
男は細い目をいっぱいに開いた。
「はい。一緒、いや」
自己のとぼしい梓だが、細目の男を嫌悪する気持ちが12年前からある。
男は梓のとぼしい自己をすべて承知していた。
「一緒に来れば、煙草を吸わせてやる」
立ち上がった梓へ毛布をかぶせた男は裏口からスノーモービルで逃走した。
静かな山へエンジン音が響き、“あの人”を追っている者たちがスノーモービルに気づいた。
細目の男はわざと梓の顔を毛布から出した。
梓を認識した時点で発砲できなくなった追っ手を尻目に下山した2人は山麓の納屋に停めてあった男の車で逃走した。男は苫小牧で別の車を盗み、札幌へ走った。
「大きな都会ならマジックPも容易に俺たちを見つけられない。しばらくは転々と暮らすが、春にはどこかへ落ちつける」
車内で何度も犯された梓は久しぶりにセックス後の煙草のおいしさを味わった。
「はい。頭がクラクラ。おいしい」
春になるかならないかのうちに、細目の男は死んだ。食事のために真夜中のススキノへ車を停めたが、運転席のドアを開けたとたんに、刃物が車内へ飛びこんできた。
「昨日と同じ場所へ車を停めた。こいつはバカだ。よく今まで逃げていられたな」
刃物と死体を車へ押しこみ、助手席から連れ出してくれた男の顔を、梓は記憶していた。日高の施設で何度かすれちがったことがある。たがいに素っ気ない入院着のような服をまとっていた。
みりさが幸せくんの存在にまだ気づかぬまま、接客の合間に“あの人”を思い出していたころ、そう遠くない場所にあるワインバーで梓の排卵を確認した“あの人”は自己のない女体へ腕を回した。
少し離れたホテルで、あずさが受胎されることになった。