梓のビスケット・story60
「sub」あずさは自分があくまでも母の補助的立場であるという心をこめ、言葉の冒頭に口ずさむそうです。
乾燥しきっていない木を乱暴に打ちつけたテーブルの上は平らではなく、皿もマグカップもかたむいています。スズメバチが歩き回ったり、耳元を飛んだりしますが襲ってくることは絶対にないと説明されました。幸せくんという鎮痛役もいるので、深い心配にはなりません。
椅子も斜めなので疲れますが、それ以上に困ったのが味のひどい料理でした。塩をふっただけのサラダは苦く、スズメバチのエキスが入っているというゼリーは口の中で不快な臭いに変わり、目玉焼きすら無味というより、マズいという状況です。
「sub。作ったのは梓です。口に合わないかもしれませんが、エネルギー補給のために食べてください。食べながら、わたしの話を聞いてください」
わたしはパサパサのパンをがんばって食べました。食欲は依然として湧きませんが、幸せくんに栄養をつけてもらう必要があります。しかし、あずさの声が流れ始めると、食べる速度は次第に落ちていきました。ランスの笑いも小さくなり、ハチも動くのをやめました。
梓は35年前に札幌市の郊外で産まれた。父と母、兄と姉が2人ずつという7人家族の末っ子になる。
潜在意識に残っている最古の記憶情報は生まれてから3日後、ほんの1分ほど脳への酸素供給が止まったことだった。梓をふくめた世の中の誰も、生後間もないころの記憶は思い出せない。未熟な顕在意識は事態をクオリアとして認識しておらず、人間はクオリアしか感じられないため、クオリアが残っていない記憶は“記憶にない”という感覚になるのがふつうだ。
しかし潜在意識の奥には情報として残され続ける。
熱を帯びた誰かの手が生後3日しか経っていない梓の呼吸をふさぎ、1分後にふるえながら離れていったという情報へ、常軌なら誰もふれることはないはずだったが、35年後に宿ったあずさが常軌を逸し、封を破って情報を見た。
あずさだけが閲覧できる梓の潜在底の記憶情報は、梓の人生をあずさへ説明してくれた。
梓は肉体こそ平均的に成長したが、知能の発達はほんの少しずつ遅れ始めた。ほんの少しずつだから、2歳や3歳のころはふつうの子に見えた。
4歳のころから、周囲との差が少しずつ見え始め、あいさつや反応のテンポが遅れたり、発言が的を外したりする。5人目の子だから両親は落ちついていた。子どもの成長曲線は人それぞれであり、予定どおりいくものではない。小学校へ通うころには周囲へ追いつくだろうとタカをくくっていた。同時に願ってもいた。
兄や姉たちにとっては反応のおかしい梓が格好の遊び道具になった。
特に4歳上の次姉は梓を目の敵にして遊ぶ。
「梓。トイレのやり方、教えてあげるよ。わたしたちのおやつがビスケットだけになっちゃうのは、梓のオムツ代がいつまでもかかるからだよ。お母さんが働きにいかなきゃならないのも、だから夜まで家にいないのも、みんな梓のせいだよ」
梓は長い文章の意味を完全に理解するまで、しばらく立ち尽くし、姉の心を知ろうとする。姉は気短にトイレへ行く。
「梓。早くおいで」
梓が姉のイライラに気づき、トイレへ行くと、靴下を脱がされた。
「この中に立ちなさい」
水のたまる部分が地中深くにあるタイプの洋風便器なので、便器の中をのぞきこむと小さな穴だけが見える。
梓が怖いと思った時には姉の手で持ち上げられ、便器の中に立たされた。姉の手が外れると、素足は陶器の内側を滑って穴の中へはまった。バランスを失った梓は便器の淵にしがみつき、姉を見上げたが、閉まるドアしか見えなかった。
脱出することに決めたものの直径が10センチほどしかない穴へ両足首がすっぽりはまっているため登ることができず、もがくとよけいに足は沈み、締めつけられる痛みに襲われた。5分ほど呆然としてから、ようやく泣き出し、2階にいた長兄に助けられたが、“どうしてこうなったのか”という質問へすぐに答えられず、ようやく次姉の名を言おうとしたころには、周囲が“トイレの練習をしようとして落ちてしまったのだろう”という結論を出しており、否定しようとしたころには誰もいなくなっていた。
次姉は近くの大きな公園へ梓をよく遊びに連れていってくれた。
「梓はわたしと公園に行かなきゃダメだよ。わたしもお姉ちゃんに連れていかれたんだから」
どうせ泣かされてしまうのだから断りたいのだが、断ろうとするころには靴をはかされ手を引かれている。2人のポケットにはテーブルの上に毎日置かれている、ティッシュにくるまれた3枚のビスケットが入っていた。
公園には大きな砂場があり、ままごと遊びをする幼児たちが散っていた。
梓と姉も一角に陣どる。梓は水飲み場へ行かされ、家から持ってきたバケツに水を汲んできた。
向かい合って砂の中にすわった2人は砂を濡らして団子を作った。
「わたしと梓のおやつ交換しよう」
姉は自分の砂団子と梓のビスケットを交換すると、6枚を一気に食べた。食べ終わったころに梓は反撃した。
「はい。わたしのビスケットほしい。はい」
「はい、はい、ってうるさいから。キコちゃんの家にみんなで遊びに行ったらね、フルーツゼリーのおやつが出たのに、わたしだけビスケットだったから。どうして、って聞いたら、“毎日ビスケット食べるんでしょう、大好きなんでしょう”って言われたから。梓がいなきゃ、わたしだってフルーツゼリー食べたり、チーズケーキ食べたりできたでしょう」
なぜか泣きそうな表情になった姉は砂の団子を思いきり梓の顔へぶつけた。
「この団子、梓のおやつだから、食べな。食べなかったら、また顔にぶつけるよ」
手でさわっていると丸く感じる砂だが、口の中に入れると鋭利に角ばっているのがわかる。
梓が泣き出したのは1つ目を食べ終えてからだった。
周囲の幼児たちが同時に梓を見てきた。遠巻きに砂場の幼児を見守っていた保護者たちが近づいてきた時、姉はティッシュを梓の口に押しこんで黙らせると、手を強引に引っぱって家へ連れ帰った。
梓はそれでも姉が好きだった。遊んでくれるからだった。梓をかまってくれるからだった。他の兄弟は梓をからかって遊びはするが、本気で相手をしてくれない。両親は梓を見守るだけしかしてくれない。
午前中は自宅の裏にある幼稚園へ通ったが友だちはできなかった。先生の1人がいつも梓に張りついているので、友だちは梓を特別視した。
梓の潜在意識には先生の言葉が残っている。
「梓ちゃんが他の子と同じ料金で通ってくるのはおかしいね。特別な幼稚園か、保育園へ行けばいいのに。トイレもできないんじゃ話にならない」
仕事の終わりが遅い両親は夕方になっても迎えにいけないため保育園ではなく、梓でも歩いていける裏の幼稚園を選択し、午後は兄弟が梓の面倒を交代で見ることになっており、実際は次姉へほとんど押しつけられていた。
「梓。早く1人でトイレへ行けるようになってよ。1人で遊べるようになってよ。みんなの誕生会に行けないから、わたしの誕生日に誰も来てくれないじゃない」
次姉の誕生日の午後、3枚のビスケットが積み上げられ、泡立てたシャンプーでコーティングされた。
「お祝いしてよ。梓のせいで誕生会ができないんだから、代わりにお祝いのケーキ食べてよ」
両親がいない時、梓はなるべくオムツを汚さないようにしていた。なにがなんでもぎりぎりまでガマンした。両親以外の人が梓のオムツ替えを嫌がるのがはっきりわかっていたからだった。
しかし次姉の誕生日の夕方から激しい腹痛をもよおし、何度もオムツを替えられた。翌日、30分おきにオムツをめくるはめになった幼稚園の先生の視線を梓はクオリアで記憶している。
「梓ちゃん、自分の頭がおかしいのに気づいている?」
次姉の言葉も記憶している。
「来年のわたしの誕生日までに絶対死んでね。わたしは誕生会をしたいの。ケーキを食べたいの。死んでくれなきゃ、今度はもっと長く口をふさぐからね」