表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/114

摩周湖でおぼれる・story58

 左腕で笹をかき分けながら登っていくランスの右手をわたしはにぎっています。どれだけ登っても、どれだけにぎってもランスの手は人肌の温度を下回ったままです。幸せくんが体温調節してくれているせいで気づかなかったのですが、まだ春とは言いきれない北海道の山中だけに、髪も服も濡れたままのランスは風邪をひくかもしれません。

「俺のせいとか、言うな」

{ごめん。幸せくんも疲れているのに、ごめん}

 足元は雨泥でぐちゃぐちゃになっていますがランスの足どりはしっかりしています。体力的な面だけでなく、梓という人の現在地についても確信がありそうな足どりです。

「みりさ、それはちがうぞ。ランスは感情がないから、自信の有無が態度に出ない。どんな時でも黙々と歩くはずだ」

 幸せくんの読みどおりでした。

 そろそろ休みたくなるくらいまで歩くと、笹薮が終わり、小さな池へ着きました。

「魚を獲った池だね。ランス、山の中がわかっているの?」

「フヒヒ。別に池へ来るつもりはなかった。鳩の巣を探している途中」

「94%でしょう。探す必要あるの?」

「ヒヒヒ。94%は方向の確率。位置は不明」

 ランスが空へ口を開け、強い雨を飲んでいます。

 わたしは池の水を手ですくおうとして、止まりました。

「エキノコックスはこの池にもいるかな」

「フヒヒ。寄生虫の話を聞いたから、雨を飲む」

「どっちにしろ午前中飲んだじゃない。もう手遅れだよ」

 わたしはかまわず水を飲みました。

「みりさにしては慎重さがない。ヤケクソ行動なんてめずらしいな」

「寄生虫がいた場合、退治は幸せくんに任せたよ。せっかくここまで来たなら、トラックへバッグをとりに行きたいな」

「田村様はいなくなったが、代わりにマジックPが来ているかもしれない。バカばっかり考えないで早く先へ進めよ」

 ランスはまだ空へ口を開けています。

「ランス。疲れた?」

「ヒヒヒ。こんなに強い雨が降っても、池の水は増えない」

「摩周湖を思い出しているの?」

「ハヒヒ。摩周湖を直視したことは1度もない」

 ランスは顔を正面に向けました。

「ヒハハ。写真では見たことがある。カムイッシュがあんな風に浮かんでいた」

 わたしは事の恐ろしさにバッグも耳のケガも忘れました。午前中はなにもなかった、たった今までなにもなかった池の中央に緑の島が浮かんでいます。浴槽ほどの小さな島ですが、まちがいなく陸地です。

 田村様の言ったとおり、幸せくんの言ったとおり、もはや人間が記憶していることなど、なんの役にも立ちません。存在も信用も過去もすべて情報に置きかえられ、情報によって書きかえられ、情報にしたがうしかないのです。

「みりさ。今までおぼえた常識をすべて忘れなきゃならないな。生まれかわって1からやり直さなきゃダメだ。俺もそうするよ」

 ランスが池へ入っていきます。

「ヒヒフ。みりさちゃん行こう」

「島に行ってどうするの? 葉っぱばかりで、なにもないみたいだけど」

「みりさ。常識は忘れろ。まともな島じゃない」

 わたしは靴のまま池へ入り、ランスを追いました。

「冷たい。川より冷たいのはおかしいね。池の水はじっとしてい」最後まで言えませんでした。

 池の水がすべてどこかへなくなり、雨は池底の泥を直撃するようになったのです。

 足が止まってしまいました。

「幸せくん。ちょっとこの状況は精神的に無理。次はなにが起こると思う?」

「しっかりしろ」

 足が全自動で歩き始めます。

「こうやって全自動で歩くことだって非常識な話だ。だけどもう慣れただろう。強い覚悟を持ってすべてに慣れろ」

 島の前に立つランスへ追いつきました。島は水がなくなった分だけ高さを増しましたが、それでもわたしの背ほどしかありません。大きさは浴槽くらいですから、カムイッシュのように地下へ家が埋まっているはずもありません。

 雨が強くなってきました。土砂降りを超え、バケツをひっくりかえすを超え、浴槽をわんこそばの速度でひっくりかえすくらいになり、空気は水と入れ替わり、わたしたちはなにかを思うヒマもなく、腰、胸、肩と水につかまれ、鼻と口をふさがれました。池が一気に増水して、わたしたちを飲みこんだようです。

 急な展開に対応できないわたしは水を飲みました。肺や胃が苦しくなり手足をバタつかせたわたしへ、にっこり笑ったランスが手を伸ばしてきました。いつのまにか温かい手になっています。

「ヒヒフ。雨が降っても、池の水は増えない」

 バタつかせている手が固い物にぶつかりました。

 固い物は木椅子の脚でした。

 あれほどの存在感がどこへ行ったのか、池も島も雨もなくなっています。

 なにがなんだかわかりません。屋外で冷たい雨におぼれていたはずなのが、いつのまにか暖かい室内にいます。空気とテーブルと椅子があります。暖炉があり、丸太を組み合わせた壁があり、板を張った天井があり、小さなランプが吊るされています。灯りはランプと暖炉の火だけです。

 床であお向けのまま、首だけ回して周囲を観察していたわたしは暖炉の火を見ながら上半身を起こしました。木の香りが充満する10畳ほどの部屋にはゴミ箱や鉢植えが置かれていますが、テレビや本棚はありません。壁には時計もカレンダーもなく、丸太に直接絵が描かれてあり、天井の隅にハチの巣がくっついています。

 タオルケットを頭からかぶったランスが暖炉の前で笑っています。肩に鳩を乗せています。

「ヒフフ。みりさちゃんも赤い服と紺のズボンになった」

 なにがどうなったのか、わたしは温かい服へ着替えています。

 耳に手をやろうとした時、急に目と鼻の先へ女の人が現れました。

 どこから湧いてきたのか、いきなり登場した女性の放つ煙草の匂いが木の香りを押しつぶします。

 三十代半ばほどに見える女性は煙を吐きながら、くちびるを動かしました。

「はい。初めまして。こんにちわ。はい。つまらないけど食べる?」

 女性は手のひらに、とても小さくて冷たそうな目玉焼きをのせています。肩にはスズメバチがすわっています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ