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水と光・story55

 スキューバダイビングなどしたことありませんから、水中にずっといるのは胎児のころ以来です。雪解けの流れの底にいると、羊水が冷たくなるのをイヤがる幸せくんの心がわかります。体を動かすことで少しずつ温まりながら、ランスへの心配が1歩ずつ増えます。

{ランスが寒そう}

「寝ているから寒くないだろ。子どもだから平気だよ。ランスより俺の心配をしてくれ」

{ランスよりも子どもでしょう}

 澄んだ水中へ太陽の射しこんでいる光景がめずらしく、わたしはなるべく閉じる予定だった視力を全開にしました。

 透明感が綺麗というのは、言葉としておかしいでしょうか。川底の景色が綺麗というよりは、景色との間にある見えない透明感が美しいのです。

「みりさ。それは川底の景色から来る可視光線情報のノイズが少ないことをよろこんだ脳から快感物質が分泌されるせいだ。快感物質とともに感じた骨格クオリアには美しいという附帯クオリアが混じる。個人差がある“美しい”という概念も突き詰めれば感情だから附帯クオリアとなる」

{もちゃもちゃ言わずに、ただ美しい。でもこんなに透明だと、岸からわたしたちが見られちゃうかな}

「赤ちゃん以降の人間は長時間水中にいられない、という潜伏知識が追っ手にあるから、本気で川の中を探してくるやつはいない。ただし酸素マスクが2つ減っていることに気づかれたら、川ばかり見られる。すぐ追いつかれて、見つかるな」

{川には誰もいない、という情報を鳩の人は出してくれるかな}

「わからないが、もうクタクタだろう。鳩を飛ばしたり、追っ手を自殺させたりで、エネルギーが残ってないはずだ」

{いつ川を出ようか。あまり遠くへ行くと、鳩の人から離れてしまう}

「さっきの現場からもう少し離れたら岸へ上がろうか。万一見つかったら、鳩の人が最後のエネルギーをふりしぼって、マジックPをまた自殺させてくれると期待するか」

 自殺した人から噴き出した血が川より速く流れる場面を思い出しました。夢中で逃げようとしている時は脳からなにかが分泌されているのか、人としてなにも感じませんでしたが、次々と人間が死んでいく場面をあらためて思いかえすと、心が冷たく下がっていきます。たとえ相手がマジックPの人間であってもです。

「みりさ。イヤなことを思い出すと精神反応が崩れて、顕在意識の判断力へ影響するぞ。1つまちがえばみりさから血が噴き出ていたんだ。心の持ち方をちょっと狂わせただけで命取りになる状況は今も続いている」

 1つまちがえば、と言われましたが、わたしはなにもまちがえようがありません。なにも判断していませんし、なにもしていないのです。トラックから川底までたどり着けたのは鳩の人と幸せくんのおかげです。自分の足で鳩の人へたどり着き、自分の足でドクターSDへ到達する強さが欲しくなります。

 小さな魚がわたしを追い抜いていきました。子どもとしか思えない3センチほどの魚です。

{わたしが帰らないと、金魚たち死んじゃうよね}

「忘れろよ。強さが欲しいんだろう」

{うん。あの泳いでいる魚、寒くないのかな}

「慣れているだろ。俺の調整だけじゃなく、みりさだって水温に慣れてきただろ」

 言われてみると、いつの間にか冷たさを意識しなくなっていました。

 川は少しずつ幅を広げています。深さも増し、足元が暗くなってきました。1つも突起がない丸石のすき間から気泡の上がっている場所があります。足のついたミミズのような生き物が水中を歩くような仕草で流されていきます。

 川が大きく右へカーブしました。流れが乱れているのか足元をすくわれそうになります。

 呼吸が苦しくなってきたのはカーブを曲がりきってからでした。

{どうして?}

「酸素がなくなりかかっている。ランスのマスクも心配だから、すぐ岸へ上がろう」

{誰もいない?}

「わからない。光子は水に当たると屈折して乱調する。岸の情報は水中まで伝わってこない」

{追っ手がいたらどうする?}

「少なくとも、窒息確実な水中にいるより、岸へ上がった方が生存確率は高い。水の中にいるかぎり鳩の人からの救いも屈折してしまい、届かない」

 わたしは心へ強い力を入れると、左岸へ歩きました。

 このあたりは川底の石が岸に向かって階段的に積まれてあり、苦労なく上陸していけます。

 川から顔を出したところで、周囲の様子をうかがいました。

{誰かいる?}

「たぶん、いないようだ」

 水から出るとランスの重みが急激に増します。

「重たいし、寒いね。川の中の方が温かいなんて、どうして?」

「どっちがどうというより、とにかく慣れだ。体が水温に慣れたから、地上の風が冷たく感じられる」

 飛びこんだ場所とちがい河原はほとんどなく、斜めに成長している大樹が川の上へさしかかってくるほど森が水辺へ迫っています。

「信じられないくらい太い樹。田村様のウエストくらいある」

「“あの人”じゃあるまいし、大げさだな」

「マジックPがいないかどうか、よく探しなさい」

「たぶん、誰もいないように見えるな」

「たぶんとはなによ。しっかり探しなさい」

「なんだか光子情報が、たぶん、くらいにしか、伝わってこない」

 わたしは樹の根元へランスを下ろし、びっしょりに濡れた髪をしぼろうとしました。

「メイクもアウト。服も靴も使い物にならない。早く一式買いそろえないと」

「安心しろ、みりさ野郎。もう服も靴も化粧具も買わなくていい。死後の世界は衣裳も化粧も統一されているからな」

 大樹の陰から田村様が出現しました。手には短銃があります。指が太っているのでオモチャピストルのようにしか見えませんが、マジックPが使っていた物と同じ型ですから本物にちがいありません。

「ちょっと、幸せくん。たぶん誰もいない、って言ったじゃない。こんなすぐそばにいるなんて、どういうこと」

「このデブに関しては、俺にもみりさと同じクオリアしか発生しない」

 幻なら素敵と思い、目を閉じましたが田村様の声は聞こえてきます。

「ランス野郎に風邪をひかせる気か? こいつがいないと金の工面に困る。返してもらうぞ」

 羊水が寒いのか田村様が怖いのか、幸せくんの声がふるえます。

「あの巨体でどうやってここまで」

 幸せくんの声が聞こえるはずですが、田村様は無視して短銃をかまえました。

「みりさ野郎と小魚野郎。言葉がなくなったなら撃たせてもらうぞ。もう梓野郎の助けはない」

「梓?」

「鳩の飼い主だ。俺様の宿敵だ。生意気で煙草臭い女だ」

「女の人なんですか?」

「少し遠くまで歩きすぎたようだな。ここは梓野郎の情報テリトリーから外れている。助けは来ないぞ」

「どうして水から上がってくる場所がわかったのですか?」

 田村様が笑うと、森の空気へ脂臭が混じります。

「マジックP野郎共が4人射殺されていた。ついでだから、死体を囲んでいた後続の5人を幻想で殺し、銃をもらった。酸素マスクが2つなくなっていた。酸素マスクの容量を調べると上陸場所の特定は簡単だ。ぎりぎり遠くまで逃げたい心理だろうからな」

 田村様は身軽にジャンプすると、わたしの目前に立ち短銃をほほへ押しつけてきました。

「ランス野郎へ当たったら困るから、ここで撃たせてもらう。梓野郎もいずれ必ず殺してやる。ここまで助けてもらった礼を生意気女へ言うなら死後の言葉を使え。礼よりも、中途半端に助けた恨みの方が強いかな」

 幸せくんの言葉から力が抜けました。

「このデブは意外に身軽なんだな。まさか追いつかれるとは計算ちがいだった。今の口調なら梓という人におびえているみたいだから、そこまでたどり着けたら、なんとかなったのに、残念だ」

 田村様が銃口で突いてきます。

「小魚野郎は寝ているのか。本当に言葉がないなら撃つぞ」

 幸せくんはしゃべり続けています。

「みりさ。なかなか撃たない理由がある。近くにまだいるかもしれないマジックPに銃声を聞かれたくないから、周囲へ必死に情報を飛ばしているにちがいない。すべての生物の耳をふさいでから撃つつもりだ」

 わたしは別のことが気になり、脳の中で思いました。

{田村様は幸せくんの声が聞こえていないみたい。田村様のバカ。デブ}

「みりさ。挑発するな。俺の声もみりさの考えごとも筒抜けのはずだぞ」

 しかし田村様は脂臭い息を吐くだけで、挑発への返事をしてきません。わたしの脳内へまったく関心がないかのように、無視します。

{きっとわたしの脳の中がはっきり伝わっていない。幸せくんも周囲がたぶんくらいにしかわからないんでしょう。わたしの脳を出入りする細かい情報は全部屈折している}

 わたしはびっしょり濡れた髪をにぎりしめました。

「みりさ野郎。短いつき合いだったがおもしろかったぞ」

「待ってください、田村様。わたしと仲間になりましょう。梓を油断させるためにわたしを利用してください。あいつは梓野郎です」

 自分の足でたどり着くという強い心が、全身で濡れています。

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