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体の中を奪われる・story54

 200万都市の札幌ですが、居住地域は市の北半分に集中しており、南半分は人の住まない山間部になっています。

 国道230号線は市内から山間部を上って定山渓温泉を経由し、峠を越えてから洞爺湖へ下っていくルートで、わたしたちは定山渓温泉より市内寄りの山中にすわっています。周囲の森は雪解けの最終段階のようで、大きな樹の根元に汚れた雪のかたまりが残っている場所もところどころありますが、ほとんどの地面は湿った土が出ています。雪解け水を飲んだ川の流れは速く、けれど深く、澄んだ音で通過していきます。川幅は5メートルほどあります。豊平川へ吸収され、やがて石狩川に合流し、日本海へ達するはずです。

 この綺麗な水の中をエキノコックスという寄生虫が泳いでいる可能性をなにかで読んだことがあります。ホステスは飲んで遊んで寝てばかりというイメージを持っている人が多いことは接客していればわかりますが、実際のホステス生活は遊ぶヒマを惜しんで本や雑誌や新聞を読み、知識を脳へ詰めこむことが要求されます。お客さんは千差万別、どのような人がどのような話題を好んでやってくるかわかりませんから、なんでもかんでも吸収しておかなければプロにはなれないのです。

 エキノコックスは宿主であるキタキツネの体内から糞によって排出され、川へ流れこんでくることがあり、人間の体へ入ると肝機能障害などを引き起こし、死に至るケースもあります。

「幸せくん。光子レベルの情報なら寄生虫がいるかどうかわかるでしょう。ぼんやりしていると殺される前に死んじゃうよ」

「俺にはみりさとあの人以上の知識がない。寄生虫の物理的情報なんか識別できないね。なんだか理解できないクオリアは他にも数えきれないくらい発生しているし、いちいち不思議に思っていたらキリがない。不思議なクオリアはみりさが飲んだ水にもふくまれていたよ」

「それがエキノコックスだったら、どうするの」

「肝機能障害が起きたら善処するけど、完治はさせられない。病院へ行くしかないな。保険証はマンションに置いたままか。そういえばバッグはどうした?」

 わたしは初めて気づきました。ランスを抱いていたために両手が満足していましたが、本来はバッグをぶら下げていなければなりません。

「トラックに置いてきた。化粧ポーチもブラシも星占い本も財布もない。クレジットカードが3枚入っているから、すぐに電話して止めてもらわないと」

「それどころじゃないだろう。命が微妙な時になにを心配しているんだ」

「カードが1枚でもあれば、化粧品一式買えたのに」

「みりさ。本当にヤバくなってきた」

「なによ。バッグがないよりヤバいことなんてあるの?」

「全部で4人。俺たちを囲みながら、接近してくる」

 周囲にあふれる川の音、鳥の声、樹々の葉が接触する音など“森のクオリア”は変わりないように思えますが、幸せくんはわたしよりずっと繊細に情報を認識します。

{幸せくん。どこ?}

「斜面の上の方から2人。上流側から1人。下流側からもう1人。計4人が散った状態で来ているから、こちら岸は逃げ場がない。だけどランスを抱えてこの川はわたれない」

{起こそう}

「もう遅い。相手は短銃で武装している。1人はもう20メートルくらいのところまで来た。木の陰から、こっちを認識している」

 絶望というクオリアがあるなら、これでしょう。心臓が苦しくなり、脳は半分寝ているかのように思考を失い、1+1も計算できそうにありません。手足はしびれているというか、感覚がなくなりました。

{逃げられない。捕まる。殺される}

「ランスが右足にはいている下駄の1番上の棚にエアガンがある。水鉄砲を改造したやつだな。相手の目に当てられれば視力を一時的にふさげる」

{わたし、無理。幸せくん、わたしを動かして。お願い}

「俺だってもう限界だ。エネルギーがない。ランスを起こせ」

 わたしは足に力を入れ、ゆっくり立ち上がりました。

「ランス。着いたよ。起きなさい」

 震度6くらいの勢いで揺さぶりましたが、ランスはぐっすりしています。

{無理みたい。幸せくんも気絶させられてから、しばらく起きなかったよね}

「確かに、緊張状態すら奪われて熟睡した。田村様の力はすごい」

{幸せくん、海を出しなさい。あいつらに幻を見せてやって}

「俺にできるわけないだろ」

 絶望が増えました。涙が出てきます。

 顔を上げると、黒い帽子をかぶり、顔には暗いゴーグルをつけ、濃緑の動きやすそうなジャージを着た男が河原を悠々と歩いてくる姿が涙へぼんやりにじみました。

 後ろで声がしたのでふり向くと、同じ格好の男が1人、携帯を使っています。

「AD、SF。承知いたしました」

 山の方からも同じ服装の男女が降りてきます。黒いブーツに山の泥がついています。

 幸せくんの声が脳で落胆しました。

「みりさ。きっとマジックPの連中だ。マジックPも田村様の居場所をだいたい見当つけていたんだろう。周辺を捜索しているうちにみりさの走る姿を見つけたにちがいない。俺はみりさの走行操作に精一杯で周囲をよく見ていなかった。もうこうなったらしかたない。早く見つかった分だけ歩かなくて良かったと思おう」

{わたしはドクターSDの所へ幸せくんを連れていくの。ダメ元で交渉してみる}

「電話越しに命令が聞こえた。交渉の余地はないようだ」

 わたしは感覚のない手をにぎりしめました。夢の中へ浮かんでいるような気分です。ランスの寝顔が楽しそうに笑っています。ムカデのような気味悪い虫が艶々した岩の上を滑りもせず、幸福そうな足どりで歩いていきます。なんだかお腹が痛くなってきました。やはり寄生虫を飲んだかもしれません。

{わたしが死んだら寄生虫はどうなるんだろう}

 わたしと幸せくんとランスは4人に囲まれました。

 敵は口も開かず、ただ黙って囲んでいます。

 黙ったまま、わたしの正面にいる男が短銃を出しました。映画などで見る物と同じです。ランスの水鉄砲とはちがいます。

 幸せくんもなにも言わなくなり、ランスは相変わらず寝ています。

 映画なら銃をかまえてからカチャッという音がまず聞こえますが、本物はなんの音も立てず、いきなり発射されました。

 飛んでいる蚊を両手でたたいたような音が森の中へシンプルに美しく反響していきます。

 わたしは徐々に静まっていく音響をなんの痛みもなく聞きました。

{幸せくんが痛みを止めてくれた}

 思った脳へもう1度銃音が聞こえました。

{ランスも撃たれたのかな}

 ランスへ向けた視界の端に銃を持つ男が見えました。男は紫の煙を立ち上らせている銃口を自分のこめかみへ当てます。

{自分で死んじゃう}

 わたしのまぶたが勝手に閉じました。3度目の銃音が森をたたき、少しずつ遠ざかっていきます。

「どういうことだ。わからない。仲間の2人を撃ってから自決したぞ」

 幸せくんの声を聞いたわたしは目を上げて周囲を確認しました。

 3人の男が倒れており、岩を濡らした血が赤黒く広がっています。

 たった1人で立っていた女が近づいてくると、死んだ男の使っていた携帯を奪い、メールを打ち始めました。

 幸せくんの声が興奮します。

「女は汗びっしょりだ。心臓がすごい速さでうねっている」

 女は文章を打ち終わると、画面をわたしに見せました。

“マジックPの人間は他にも大勢いる。銃声を聞いて集まってくる。ランスを抱いて川へ潜りなさい。酸素マスクを受けとったら、すぐに動きなさい。下流へ”

 もう1度読もうとしたところで、女がガスマスクのような物を2つ、岩の上に置きました。

 幸せくんが早口になりました。

「みりさ、急いでマスクをつけろ。こいつらが1人1つずつ携帯している酸素マスクだ。早くランスを連れて潜れ。誰かの足音が近づいている」

 わたしはランスへマスクをつけ、付属のバンドで頭に固定してから、自分へも同じことをしました。

 ランスを抱いて飛びこもうとした時、背後で「ちくしょう」という女の叫びが上がり、銃声に打ち消されました。

 ふり向くと、女が自分の頭を撃ち抜いていました。

「みりさ、こいつらは遠隔操作され、意思とは関係なく自殺したみたいだ。きっと鳩を飛ばしている人が助けてくれたんだ。だけど、メールを打たせたり、自殺させたりといった複雑な操作をするにはエネルギーを相当使ったはずだ。後続に見つかっても、もう助けてもらえないかもしれない。急げ。自分の脚で、その人までたどりつけ」

 わたしは飛びこみました。というより飛び降りました。川は岸淵からいきなり深くなっており、水深は背丈より1メートルほど高いので、川の中央で首を縮めながら歩けば、澄んだ水でも隠れていられそうです。しかし死にそうなほど冷たい水が全身の毛穴へ染みこんできました。

{冷たい。冷たすぎる。幸せくん、体温を上げて}

「なるべく体温を調節するが、俺だってクタクタなうえに羊水が凍りそうだ。必死で全身を動かして温まれ。頭を上げると岸から見えるから注意しろ。ランスが浮かばないように気をつけろ」

 下流へ向いているので、ほとんど力を入れなくても体が進みますが、わたしは全身に力を入れて急ぎました。

{ランスが凍っちゃう。急がないと}

 川底には丸い石が起伏激しくならんでおり、歩きにくいのですが、なるべく目を閉じて進みました。

{目の中に寄生虫が入ったら悲しすぎる}

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