死に至る水・story53
幸せくんが鎮痛作用をあたえてくれたのか、ハチの痛みはすぐに治まりました。
「みりさ野郎の“あの人”は変異脳の種をまきちらして死んだからな。変異脳胎児を積んだ妊婦はまだ市内に数人生き残っている。道具の代わりには困らないということだ。安心して死に方を選べ。海で自決するか、猛獣に食われるか」
海中からライオンが現れました。海面をこちらへ歩き始めた猛獣はわたしの10メートルほど前で立ち止まり、目が合うと重心を低くした姿勢で威嚇してきます。
{幸せくん。なんとかならないの?}
「俺はみりさの体内の反射神経作用や痛神経作用を操作できる。だげど外部情報はみりさが受けた情報と同じ物を見るだけだ。海やライオンは止められない」
{幻の窒息を止められる?}
「外部から呼吸できないという情報をもらったら、みりさの心肺は停止する。みりさも気絶する。俺が心肺を再起動したとしても海底にいるという情報が続く限り、心肺は常に止まろうとする。俺はすぐに力尽きるよ。もうすでにクタクタなんだ」
{しっかりしてよ}
「ライオンに食われたら痛みだけは止めてやる」
わたしはランスを抱きしめたまま打開策を考えようとしましたが、ライオンがふたたび歩き出したところで思考がすくみました。
{もうダメ}
せめてランスを巻きこまないように砂浜へ下ろすと、水鉄砲の棚が目に入りました。
{エアガンみたいなやつとか、劇薬とかいろいろあったはず}
適当につかんだ水鉄砲をライオンへ向けます。
田村様が脂を揺らしながら大笑いしました。
「みりさ野郎。おまえはおもしろい女だ。殺すのが惜しいな」
どうやらまともにかがめないらしく、砂へヒザをついた田村様の巨体はランスの下駄から水鉄砲を1つ出します。
「みりさ野郎。おまえがつかんだのは幸せの水とランスが呼んでいるただの真水だ。どうせなら、これを使え。目に入ると激しい痛みがくる」
田村様はわたしの目へ2発撃ちました。
一瞬だけ視界が濡れたかと思うと、眼中に火を入れられたような激痛が勃発しました。
手に砂がついているのもかまわず、激しく目をこすりながら、{助けて、早く痛みを止めて}幸せくんを呼びましたが、「そうか。みりさ、よくやった」
幸せくんの弾んだ声が聞こえたかと思うと、目を押さえていた手が全自動でランスを抱き上げ、立ち上がったわたしの体は全力疾走で山を降り始めました。
{目が痛い。痛みを止めて}
「ガマンしろ。それどころじゃない」
海があったはずですが、足は常に地面を蹴ります。幻が消えて森の姿になったとしても、樹々がまさに林立しているはずですが、わたしの体は全自動で、スキーアルペンの滑降のように左右へ少しずつ身をよじりながら走ります。盲目の恐怖を感じたり事態の把握を行おうとするべき場面でしたが、目の激痛に耐えるのがやっとのまま10分以上走らされ、ようやく脚色が鈍ったところで川の音が聞こえてきました。
「みりさ。ランスを下ろしてから川の岸辺へヒザをつかせる。水をすくって目をよく洗え」
「なにも見えない。わたしが見えなきゃ幸せくんも見えないでしょう。川へ落ちる」
「見えなくても、俺には周囲の気配がわかる。変異脳の特性をもう忘れたのか」
「早く痛みをとって」
「わかった」
痛みが少しずつ薄らぐ中で、わたしの体はランスを地面へ置き、川の匂いと涼しさとせせらぐ音の間際へヒザをつきました。手ですくった冷たい水が目の痛みを優しく中和してくれます。
「みりさ。ついでに飲んでくれ。ぐったりだ」
冷たい水をお腹いっぱい飲みました。
「サイダーだったら、テンション上がるけど」
「テンションより体力だ。もう走らせられないぞ」
「どうして海がなくなったの?」
「視覚情報を操作されていただけだ。人間は五感のうちでも視覚を圧倒的に多く使うから、視覚情報へ海があると伝えられたら、海があると信じこむ。視覚は五感の中で最も優先されるんだ。だから、もしも目つぶしをされると、たいていの人は体を動かせなくなる。田村様は動けなくなったみりさを砂浜で殺すつもりだったみたいだが、俺は視覚をふさがれた場合でも他の情報で周囲を把握できる。残りの四感から得る情報で障害物をよけながら、みりさを走らせられる。さすがの田村様も変異脳を相手にするのは初めてなのかもしれない。計算ちがいをしたみたいだな」
「他の情報を使えるなら、もっと早く気づきなさいよ」
「視覚情報が入ってくるうちは、俺だってどうしても圧倒的な量の視覚情報を頼ってしまう。すぐに頭を切り替えるのはなかなか難しい」
「対応が遅い。目が痛くて死ぬかと思った」
「走らせたり、鎮痛してやったりしているじゃないか。命がけで守ってやっているんだぞ」
「守ってやっているとはなによ。自分の命もかかっているでしょう。動かしているのは幸せくんでも、走っているのはわたしなんだから。明日筋肉痛になったら責任持って鎮痛してよね」
「明日があるかどうか、わからない身だぞ。田村様の情報テリトリーは抜けたし、あの巨漢じゃ下り斜面を追いかけては来られないだろうが、手は打ってくるはずだ。早く下山しよう。国道へ出よう」
国道といえどもふつうの山奥ではタクシーもなかなか流していませんが、定山渓温泉から市内へ戻るタクシーがいるはずなので、期待はできます。
わたしはランスを抱き上げ、下流へ向かって左岸を歩きました。
眠っている少年は米袋より重く、抱いているだけで汗がファンデーションを突き破ります。米袋とちがって温かいので、よけいに顔が暑苦しく感じます。周囲は雪解けの森ですし、川の音が肌寒いほどですから足元や背中は汗がすぐに冷えるのですが、よりによってメイクしている部分だけ高温です。
岸辺は岩原ですが、歩きにくくはありません。しかし走ったばかりのうえ、ランスを抱いているため、あっという間に疲れがピークになりました。
「ダメだ。ランスをたたき起こそう」
「歩き出したばかりだぞ。そんな根性じゃマジックPにすぐ捕まる」
「幸せくん、どうして田村様の名前やマジックPのことを知っているの?」
「みりさの記憶を読める、って言っただろう。俺の特性を忘れるな」
立ち止まり、ランスを岩の上へ置きました。
「国道から山道へ入ったトラックが15分も揺れたの。わたしの足で国道まで歩くのは無理」
「だからってどうするつもりだ。こんな山中の河原へタクシーは入ってこないぞ」
「考えてみれば、田村様とケンカ別れしたということはマジックPにいつ捕まってもおかしくないよね。国道へ出るのは危険」
「山の中で暮らすのか」
「鳩を飛ばした人を探そう」
幸せくんが黙りました。わたしの考えを読んだようです。
「みりさの考えは悪くない。ランスは確かに、鳩の操作は近くからじゃなきゃできないようなことを言っていた。田村様の情報テリトリーにいなかったとしても、かけ離れた場所じゃないだろうな」
「いい考えでしょう。きっと山の中にいるはず」
「でも山の上の方かもしれないぞ。田村様を大きく迂回しながら登るか?」
「登るのはイヤ。もう疲れた」
河原に羽音が舞い降りました。今まで何度か見かけた鳩より一回り大きい感じの白鳩です。羽根が手入れされているかのような白さで、目つきが鷹のようにけわしく、岩の上へ立つ姿からは風格すら感じられます。
「幸せくん、鳩」
「わかっているよ。みりさと同時に俺へも見えている。みりさが認識していない物も俺には見えている」
「なんの話?」
「鳩の足首を見ろ。そっと手を伸ばせ」
伝書鳩の使うような筒が足首に巻いてあります。わたしをじっと見つめてくる鳩へ、手を伸ばしました。
筒にはメモ用紙が入っており、武骨な筆跡がきざまれていました。
“この川の水を飲むとエキノコックス症に感染する恐れあり”