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幻の青い海・story52

 ランスに手を引かれながら笹薮の中を帰ります。

 幸せくんとふつうの母子家庭を築ける可能性がゼロではないことを知り、カギをにぎるドクターへの到達確率98%という高数字すらもらえたのに、田村様へ1歩ずつ近づくたびに脳が重苦しくなります。

「やっぱり無理がある。うたがっているのがバレている相手と一緒じゃ平気な顔をしていられない」

「ハヒヒ。じゃあとりあえず心の底から信じる」

「そんな器用なことできるわけないでしょう。あのデブのお腹をたたき切ってやりたいのに。幸せくんの敵は許さない」

「ヒフフ。じゃあ田村様はお腹を守りながら寝なきゃならない」

「まだ寝ているならチャンスかも。鳩を飛ばしている人がさっさと田村様をやっつけてくれたらいいのにね」

「フハハ。きっと焦らない。世界の頂上決戦は弾丸の代わりに情報が武器。みりさちゃんより慎重に相手の様子を確かめなきゃならない。田村様もじっくり相手を見極めようとしている。ニューアップバージョンの戦争」

「戦争のまっただ中にいるわけ。道理で胸が重い」

「ヒヒ。もうすぐ田村様の情報テリトリーに入る。会話が筒抜けになる」

 黙りこんだわたしたちは痛がゆい笹の葉をかきわけながら歩きました。下り斜面ですし、雪解けの水分が土の上でぬるぬるしているため、油断すると滑りそうです。幸せくんのためにも転倒するわけにはいきません。高下駄で安定した歩きを見せるランスの後ろを慎重についていきました。

 笹薮を抜けてトラックへ着くと、わたしの胃がムカムカと温かくなり、手足の動作が鈍くなりました。

 ランスは変わらない手つきで後ろの扉を開けます。

 ちょっと待って、と言おうとしましたが、声は上がってきた胃液に溶かされました。

 ランスがトラックの箱へ飛び乗ってしまったので、わたしもしかたなくよじ登ります。

 箱の中を見た時、胃の不快感が一気に消えました。

「田村様、出かけたの? トイレでも行ったの? まだ寝ているなら腹をたたき切ってやれたのに」

 ベッドの上には誰もいませんでした。狭い箱には巨体が隠れる場所などありませんから、一目で不在とわかります。

 しかしランスの雰囲気が変わりました。うたがうような目で箱の中をにらみます。

「ヒヒ。みりさちゃんにも見えない?」

「誰が見たっていないじゃない」

「フフ。田村様がいる確率は97%」

「あんた、バカ?」

 言い終わらないうちに、ベッドの上へ田村様の巨体が登場しました。壁に寄りかかってすわり、ぶよぶよ笑いながら、わたしたちへ手をふります。

「みりさ野郎に“見たなら信じろ”と言ったことがあるが、あれは高等な生物の常識だ。おまえの脳は下等動物の脳だ。情報にのみ支えられるがゆえに、情報がちがえばただの豆腐だ」

 田村様は流し台にある包丁を指さしました。ランスが鳩の首を落とした血はまだ残っています。

「包丁には脳がない。だからこっちの思うように使える。ランス野郎もみりさ野郎も俺様から見れば脳のない道具と一緒だ。おまえらの脳は俺様が自在にあやつれるからな」

 どうしたことか、急にあらわになった田村様の本性が狭い箱の中に響きわたります。

 気まずい時間を過ごさなくて良くなった安堵よりも、厳しい恐怖が先行したわたしはランスの小さな背中へ隠れました。

「ヒヒヒ。みりさちゃんの脳をミラーで見たら、あっさり正体を明かした。田村様が焦るのはめずらしい。なにかにおびえている確率96%」

「おまえは黙っていろ。確率野郎」

 ランスの体ががっくりと曲がり、箱の床へ崩れました。

「ランス」

 わたしは床へ寝崩れた少年の体を揺さぶりましたが、ランスは目を閉じたまま動きません。

「少し寝かせてやれ。殺すにはまだ惜しい。だけどみりさ野郎には死んでもらうぞ。俺様の腹をたたき切ろうという女と一緒にいるつもりはない」

「あれは冗談です。本気でそんなことできるわけありません」

「冗談か本音かは俺様が調べる。バカな人間同士なら口先でいくらでもわたり合えるだろうが、俺様をおまえたちと同等に思うな」

 わたしの体が勝手に流し台へ歩き出しました。

「みりさ野郎が本気でできるか、できないか、たしかめてやる」

 わたしの手が包丁をにぎり、刃先をわたしの子宮へ向けます。

「やめてください。止めてください」

「本気で腹をたたき切れそうじゃないか。怖い女を助けたもんだ」

「幸せくんが死んじゃう」

「どうせ死ぬ運命だ」

 子宮を向いている刃先が動き出した瞬間、わたしの両手から握力が消え、包丁は足元に落ちました。

「みりさ、ランスを抱いて走れ」

「幸せくん」

 いきなり目ざめた幸せくんの声に勇気をもらったわたしは走り出そうとしましたが、すぐに足が硬直しました。

「止まれ。みりさ野郎の脳を支配しているのは俺様だ」

 立ち上がった田村様の肩が大きく上下しています。太い女の荒くなった呼吸がわたしの所まで臭く届きます。

「おい、小魚野郎。なんのマネだ。みりさ野郎の脳は俺様からの情報を優先する。貴様の小さな脳で邪魔できるはずがない」

「あんたは脳までデブだ。大きな容量の脳から強い光子が発せられている。だけどみりさに対する情報はあくまでも無線で宙を飛んでくる。俺の脳は確かに小さいが、みりさの脳とは有線でつながっているから、みりさの脳は俺からの情報を優先する。勉強不足のようだけど、有線と優先の、漢字のちがいくらいはわかるよな」

「生意気な魚野郎だ。勝った気になるなよ」

 大量のスズメバチがトラックの中へ押し寄せてきました。わたしは恐怖とおどろきと意味のわからなさで、体も心も停止しました。

「ただの幻想だ。走れ、みりさ。ランスを抱け」

 幸せくんの声が聞こえますが、全身の筋肉が停止してしまい、まばたきもできません。

 スズメバチの大群をかきわけた田村様の巨体がわたしの頭をつかもうとしてきます。

 わたしの体が全自動で動き出しました。ランスを抱き上げ、トラックから飛び降ります。

「みりさの体を俺が全部操作すると莫大なエネルギー消費になる。なにも食べていないから、クタクタだ。頼むから足を自分で動かしてくれ」

 わたしが自分の力で足を動かそうとしたとたん、全身が停止しました。

 幸せくんの息づかいが乱れます。

「なんだよ、これ。どうしたらいい」

 トラックの周囲は深い森だったはずが、いつのまにか真夏の海岸になっています。わたしたちの行く手には海が水平線まで広がっており、まぶしい太陽と2羽のカモメが青白い空に浮かんでいます。

 田村様がわたしたちの横にならびました。

「もちろん、幻想だ。気にせず進んでいけ。海水が冷たいのも幻想。おぼれるのも幻想。しかし幻想だろうとなんだろうと、脳にとっては正当な情報だ。潜在意識は情報へ忠実にしたがう。おぼれた呼吸はやがて停止するだろう。みりさ野郎を操作する力は小魚野郎の方が強いかもしらんが、目へ入ってくる情報は俺様からの操作が優先される。おまえたちの脳は結局俺様が支配しているわけだ。脳を制するものが、地球を制す」

 スズメバチの大群が夏空へ散っていきます。幻想のはずの1匹がわたしの肩にとまりました。

 包丁で突かれたような痛みが肩先へ刺さりました。

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