初めての誕生日・story48
わたしは太陽を浴びるランスの笑顔を見ました。
「その人、ヤクザさんでしょう。怖くなかった?」
「フヒヒ。怖いという感情がわからない。ボクが生きているのは、中野さんのおかげ」
「真実を話したの? 摩周湖のことも全部話したの?」
「ヒヒ。話した」
「じゃあ、マジックプランを知っている人はいろいろなところにたくさんいるわけだ」
「ヒフ。知っている人はいない。知ったら殺される」
「ヤクザさんは?」
「フフ。死んだ」
サングラスの男は中野という、地方暴力団の準幹部だった。組の所有する車は後部座席が二重底になっており、緊急配備の検問も無事に突破できた。
ランスは中野の住む古いアパートで寝起きするようになった。
中野は元看護婦の妻と2人暮らしだった。
「この人がね、ケンカで刺されて入院した時に、知り合ったの」
つゆ子はまだ28歳だから、中野より一回りも若い。
「暴力団員なんて絶対イヤだったけど、この人ね、優しいの。あんたもね、1週間もここにいれば、優しい人だってわかるはずよ」
ランスの肌にあったハチの刺し傷も、太陽光や空気への拒否反応も、看護婦だったつゆ子がいたおかげでうまく解決に向かう。つゆ子は地下から出てきたランスをじっくり地上へ慣らしていく方針だった。
「札幌へ競馬に行くのはまだ無理ね。あわてなくても競馬会が倒産したりはしないでしょう」
早く札幌競馬場へ連れていきたがる中野をつゆ子が説得してくれた。
ランスは2人へ自分の生い立ちをそっくり話した。中野は何度もうなった。
「俺たちより、よっぽどタチが悪いじゃねぇか。バカヤロ。市役所へ殴りこんでやろうか」
泣きながらランスを抱きしめたつゆ子は“3人の秘密”と、中野に固く約束させた。
なにより大事なのはランスの居場所を絶対に知られないことだった。中野は春採湖へ車で迎えに来た若い男へ強く口止めした。
つゆ子はランスの外出を1日5分に限定する。太陽や外気、あるいは風雨に体を慣らしていくため、毎日少しずつ散歩をする必要はあったが、他の時間は窓辺へも立たせなかった。
「また閉じこめられたなんて、思わないでね。この人がね、ほとぼりが冷めたころに、どこか堂々と生きていける場所を探してくれるから。退屈だろうけど、今はガマンしてね」
退屈というクオリアはまったく発生しなかった。テレビ放送、冷蔵庫、時計、卵焼き、酒、金、窓、女の声。映像でしか見たことのない物たちが次々とクオリアになって襲いかかってくる。新しい質感を整理するためにランスの顕在意識はフル回転した。
つゆ子はランスをほめてくれる。
「あんたね、もう学校なんか行かなくていいくらい、かしこいからね。潜伏生活が数年になっても心配ないね」
しかしランスは自分がなにも知らずに生きていたことへ初めて気づいた。海も見たい、ケンカも見たい、馬も見たい。
中野が買ってきたあらゆる競馬の本、資料、専門紙などを潜在意識へたたきこんだランスは週末になると競馬の予想を始めた。馬は札幌で走るが、予想や馬券購入は釧路でもできる。
最初の週はまったく当たらなかった。
しかし中野は鋭い目つきをより鋭利にすると、「おめぇ、やっぱ目があんじゃねぇか。あと2週や3週やればいいとこだろうな」
中野の言ったとおり、ランスは経験値を積むことでカンをみがき、的中率を上げ始める。4週目からは負けなくなった。すべて当たるわけではないが、ほとんど当たった。競馬の配当は時に数十倍から数百倍になるので、すべて当たる必要はもちろんない。5週目、6週目、利益は順調に伸びた。
中野が買ってきてくれたケーキの香りをランスは肺の奥まで吸いこんだ。
「おめぇのおかげで、俺も金が回り出したしよ。ケーキ丸ごと全部食え。おめぇ、自分の誕生日知らねぇだろう。今日をおめぇの誕生日にすんからな」
つゆ子が苦笑しながら、ケーキ包丁を持ってきた。
「こんな大きなワンホールを丸ごと食べられるわけないでしょう。後で切ろうね」
中野はリボンのついた紙袋も出した。
「つゆ子の選んだ服ばっかじゃつまんねぇだろ。俺の服も着ろよ。さっそく着ろよ」
ランスは礼を言って、新しい長袖Tシャツと短パンを身につけた。
「おめぇ、似合うじゃねぇか。部屋にいる時はいつも着てろよ」
つゆ子がランスの頭をなでる。
「ごめんね。シャツが赤でパンツが紺じゃおかしいね。部屋から出る時は着替えてね」
サングラスをかけたまま中野はブランデーをラッパ飲みし、上機嫌だった。
「ランスよ。俺とおめぇの付き合いはあと5年だな。俺は競馬のうめぇおめぇとずっと一緒にいたいが、おめぇにも人生があるかんな。いつまでも俺みたいなのと縁があったら、シャバへ出てきた意味がねぇ。5年ですっぱり仲切りだ。最初は俺が毛布をかぶったおめぇを助けた。次におめぇが競馬で俺を助ける。そん次は俺がおめぇを助けるかんな。バカヤロに見つからねぇ居場所、絶対探してやんからな。貸しを1つは俺からの気持ちだ。受けとんな」
ランスはなんとなく意味を理解し、うなずいた。
「おめぇ、俺たちと別れる時、泣くなよな」
ランスはまたうなずいた。
「泣かない。泣いたことない」
「おめぇ、泣いたことねぇのか?」
大きくうなずくランスへ、中野はブランデーのビンを置いて腕組みした。
「おめぇ、バカヤロどもにとっ捕まってたのを思い出して、腹が立たねぇか?」
ランスはひたすらうなずいた。
つゆ子が間に入った。
「感情を殺されたっていう話、聞いたでしょう。もうやめなさいね」
中野は少し黙ってからサングラスを外すと、テーブルの上にあるワンホールのケーキへいきなり顔面をうずめた。不意を突かれたランスの前で、生クリームだらけになった中野の顔が起き上がり、笑った。
「おめぇ、おかしいだろ。笑えよ」
ランスの脳で初めてのクオリアが発生した。
「ヒヒヒ」
「なんだ、そのいやらしい笑い方は。もっと大きく笑えよ」
「フヒヒ」
「バカヤロ。小せぇよ」
中野の頬にあった生クリームが涙で押し流された。
「おめぇ、笑えんじゃねぇか。バカヤロ。笑えんじゃねぇか」
「ヒヒヒ」
つゆ子が女の顔を手でおおって、肩をふるわせた。
ランスの脳は赤ちゃんのころ、泣いても泣いても食事をあたえられなかったことから、涙へつながる感情をすべて抹殺していた。悲しみ、怒り、恐怖はもちろん、うれしさ、感動、興奮など、涙腺を刺激しかねない感情は全滅している。
しかし笑いは環境から推察して1度も起きたことのない感情表現だった。1度も発生していない感情表現を潜在意識は殺しようがない。
ランスは初めて笑った。笑うことは可能だった。うれしいのか、なんなのか、感情のクオリアをまったく知らないため、天才の脳といえども自分を説明できない。
とにかく笑えた。全力で抱きしめてくるつゆ子の腕の中で笑った。
「おめぇ、いつも笑ってろ。必ず笑ってろよ。笑ってねぇと、バカヤロだ」
中野はそう言いながら、生クリームと涙をぬぐった。
季節の移り変わっていく様子をランスは笑いながら見つめていくことになった。涙腺を刺激しかねない派手な笑いはできなかったが、小さく笑い、小さくはしゃぐことに慣れた。初めての霜、初めての雪に笑った。
笑いながら中野の家で正月を迎えた。今年になってすぐ、一家は郊外のマンションへ引っ越した。
「背の高いマンションだけど、ここは1階だかんな。万が一、なにかあっても窓から逃げて、でかい声を出せ。何百人も住んでいるからよ」
66世帯の入っているマンションだが厳しい寒さで知られる釧路地方だった。真冬に窓を開ける者はいない。
2月下旬。
ランスはつゆ子とストーブの前でみかんを食べていた。あきらかに異常な物音は玄関から始まった。扉にドスンと音がぶつかり、次いで扉が開いたかと思うと、サングラスの割れた中野が血だらけで飛びこんできた。
「ランス。おめぇだ。逃げろ。絶対逃げろ」
つゆ子はすぐにランスを抱え、ベランダから雪の中へ逃げようとしたが、バルコニーに出たところで、2人の男が壁陰に隠れていた。短いががっしりした刃物を持っている。
つゆ子は家の中へふりかえり、うなずくと、バルコニー柵の向こうに積もった雪の中へランスを放り投げ、1人の男の刃物に自分から飛びこんだ。
雪の上へ起き上がったランスを目指してもう1人の男がバルコニー柵を越えてきた。ランスは走り出そうとしたが、頭をわしづかみにされた。
わしづかむ握力は一瞬強くなったがすぐに消えた。
ランスがふり向くと、血だらけの中野が男をケーキ包丁で押さえつけていた。
「走れ、ランス。いつも笑ってろ。必ず笑ってろ。バカヤロなんか笑ってやれ」
中野の叫びは血と一緒に噴き出ていた。
ランスは赤く濡れた雪から目を逸らし、まっ白な雪の上を走った。マンションの敷地から道路へ出ると、見慣れない車が5台止まっている。
ランスの脳は危険を感じ、体を停止させた。
太った女が車の陰から現れた。
「ランス野郎だな」
横柄で威圧的な声だったが、なぜかランスの脳で、緊張感が抜けていくというクオリアが発生した。
「ヒヒヒ」
「車の連中野郎共は眠らせておいたから、心配ない。ランス野郎の噂を聞いてわざわざ釧路まで来たけれど、さすがの俺様もランス野郎の居所をつかめなくて、連中野郎共が動くのを待っていた。連中野郎共はまたランス野郎を追いかける。どこまでも逃げきるには俺様と一緒にいるしかない」
ランスの右手が勝手に持ち上がり、太った女と手をつないだ。足が勝手に女と歩き始めた。
ランスは自分の意思でマンションの方をふり向いた。
「あいつらは暴力団関係者だ。残念だがうまく処理される。ランス野郎、悲しいか?」
ランスは女の太った顔を見上げた。
「ヒヒヒ」




