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偏光眼鏡・story47

 わたしは笹の布団へ寝転がりながらランスの話を聞いています。薄く開いた目で太陽を見つめながら、強く呼吸をしました。

 ランスもあきらかな呼吸をしました。

「フヒヒ。山の中の空気は人間の体に合う」

「ヘリコプターから降りたランスには街の空気が合わなかったの? ずっと地下にいたせい?」

「ヒヒフ。そうみたい」

「地下の空気を水鉄砲に詰めてくるとよかったね」

「ハハヒ。ダメ。人間は肺だけで呼吸しない。空気は全身で感じないとダメ。でも慣れる。どんな空気でも人間は慣れる」


 病院の屋上から、屋外非常階段の螺旋をぐるぐる降りたランスはどんなに息苦しくても止まらなかった。毛布をかぶっている自分が周囲の目にどんなクオリアを発生させるかは勉強済みだった。自分がすぐに追われるだろうということも計算できている。

 幸いに、若い呼吸器官は空気へ早く慣れた。下駄でアスファルトを蹴る感触にも慣れた。

 市内の地図を脳へ開いた。

 とにかく北東へ。直線距離3キロ。7分の2の確率で目当ての人間を探すことができる。全力で走り抜くしかない。

 車、道路、信号など、映像で見たことのある街の風景を脳で再生しながら走った。

 病院を出て200mほど走ったところで赤信号に停止させられた。呼吸を整えながら、毛布をかぶり直していると、肩をたたかれた。

「おい、おめぇコジキ。顔見せ」

 ランスは毛布のすき間から相手の男を見た。男のサングラスが毛布のすき間を見てきた。

「おめぇ、なんだ、毛布なんか、ずっぽりかぶって。服着てねぇのか」

 ランスは白い下着の上に白いTシャツと白い短パンをはいていたが、毛布を脱ぐわけにはいかない。力ずくではがされたとするとショック症状で1歩も歩けなくなり、救急車を呼ばれてしまう。すべての行為が無駄になる。

 劇薬の入った水鉄砲を毛布の中でにぎり直しながら返事をした。

「太陽浴びたら、死ぬ」

「おめぇ、病気か?」

 サングラスの男は坊主頭だった。ラフなシャツのボタンを上から3つ外しており、金色のネックレスが太陽を反射している。

「あの毛布だ。いたぞ」

 病院の方から声が追ってきた。

 ランスは正面の歩行者信号を見たがまだ青へ変わっていない。ならば右へ走ろうとした時、サングラスがランスを抱きかかえた。

「助けてやんよ。だけど死ぬなよ」

 抵抗しようとした体が車へ押しこまれた。体勢を立て直し、水鉄砲を出そうとした時、車が走り出した。

「お客さん、交差点で急に止めないでください」

「バカヤロ。おめぇ、黙って走れ。灯台へ行け」

 誰かとサングラスの会話が聞こえた。

 これがタクシーか、ランスはすぐに現実と知識を照合した。いやな臭いのする座席だった。

「おめぇ、太陽が当たると死ぬ病気だろ。そういうの聞いたことあんよ」

 男の方からさらにひどい臭いのする煙がオーロラのように空中へ浮かびあがり、毛布の中に染みこんできた。

「お客さん、禁煙です」

「おめぇ、そういうことは乗った時に言えよバカヤロ。後から言うんならサギだろうが。言いがかりつけて無理やりケンカに持ちこむって、なんだおめぇ」

 運転している男はなにも言わなくなった。

 ランスは呼吸を止めていたが、耐えきれずにせきこんだ。

「なんだおめぇも煙草ダメか。病人だから、ダメか」

 サングラスは煙草を消し、窓を開けた。

「おめぇ、病院に閉じこめられているのがイヤになって、ちょっとだけ脱け出したんだろ」

 ランスはどう返事すればいいのか、見当がつかなかった。データを蓄積した相手であれば、動きも考えも読みきれる自信がある。しかし初対面の相手にどう接すればいいのかを考えると脳はまっ白になった。

「俺、おめぇの気持ちわかるぜ。刑務所に入れられているのと一緒だもんな」

 男がランスへ重ねているクオリアが同一なのか、ちがうのかすら判断できなかった。

「おめぇ、でもよ。病気はやっぱりちゃんと治した方がいいって。だからよ、ちょっとドライブしたら病院へ戻れ。海を見たら戻れ。いや、今日はまぶしいから海はダメか。なんなら自然公園でも行くか? 湖でも見りゃあ気分もすっきりするからよ。ちょっと遠いけど、昨日馬券で儲けたからよ。おめぇの気持ちにおごってやんよ」

 ランスの脳が少しずつ回転を始めた。

「昨日、週末?」

「なに、言ってんだおめぇ。カレンダーもねぇ病室か。テレビもねぇのか。そりゃあ退屈だな」

「今日、月曜日?」

「そうだ。のんびりドライブなんて俺たちくれえだ」

「競馬好きですか?」

「あんなに好きなもんはねえ。あんなににくたらしいもんもねえ。昨日は偶然うまくいったけどよ」

「話、させてください」

「なんのよ?」

「競馬」

「なんでガキが競馬よ」

「車、降りましょう」

 サングラスは首を傾げたが、運転手に車を止めさせた。

 車から降りたランスは毛布のすき間から大量の水を見た。

「海。青い水。初めて見た」

「なんだおめぇ。見たことねぇのかよ。生まれてからずっと病院か」

 ランスは初めての青い水に見とれた。映像と決定的にちがうのは毛布越しながら全身で海のクオリアを感じられることだった。

「おめぇ、これは海じゃねぇよ」

 ランスは奪われていた心をサングラスへ向けた。

「湖だよ。自然公園じゃねぇけどな。春採湖っていうんだ。でも海はすぐそこだ。海とつながっているから、この水もしょっぺえんだ」

 サングラスが煙草を吸い始めた。外気にふれた煙は一瞬で消えるように見える。

「おめぇ、釧路に来たばっかりか?」

 ランスは毛布の中でうなずいた。

「おめぇ、でもヘンだろ。まだ小せぇから内陸から病院移ってきたなら海を見たことないかもしれん。でも、日付も知らねぇ、いきなり競馬、ってなんかヘンだ。牧場のバカ息子か?」

 深呼吸すると、初めて感じる空気が肺へ入ってくる。空中にあふれる太陽光も見える気がする。光は射してくる方向に対して垂直に視線を送っても見えないはずだが、まちがいなくランスの目には光が見える。テキストで学んだことはなんの意味もなかった。人間はクオリアを知って、初めて物事を知ったと言える。

 初めてのクオリア続きで混乱している脳を整理した。改めて勉強し直すためにも、カムイッシュへ連れ戻されるわけにはいかなかった。自分の武器を使って生き延びなければならない。

 最初の計画では今日が週末である確率7分の2へ賭けるつもりだった。週末なら中央競馬が開催されているはずなので、場外馬券売場へ行き、自分の未来予測力で競馬を当ててみせ、感じ入った人間にかくまってもらう計画だった。月曜日というのは最悪だったが、サングラスに会えたのは幸運だった。まだ賭けに負けたと決まったわけではない。だが勝つためには追っ手に見つかる前に決着させる必要がある。追っ手を想像すると緊張感がふくらんできた。

 ランスはしゃがみこみ、下駄の下から出てきたアリをにらんだ。

「おめぇ、具合悪くなったか? 病院へ戻るか」

「このアリ」

 サングラスがしゃがみこみ、煙草を地面に押しつけた。

「おめぇ、アリも初めてか。牧場にいただろ」

 ランスはじっとアリを見てから、「右へ行く。ちょっと止まる。前脚をこする。少し下がる。右へ行く」

「なんだ、おめぇ。アリに命令できんのか」

「馬にも命令できる」

 ランスはサングラスをじっと見た。光の加減で、サングラスの奥にある目が初めて見えた。想像していたよりずっと鋭い目をしている。

「おめぇ、やっぱヘンだな。ヘリはまだ認可されてねぇはずだから、訓練でもしてんのかと思ったら、パトカーが病院の方へ3台曲がっていった。どっかの組長でも撃たれたのかと思ったから、俺は道路で立ち止まって様子見てたんだ。そしたら毛布かぶったおめぇが来たよ。なんだこいつは、と思って声をかけたら警官が追いかけてきた。おめぇヘンだ。太陽に当たって死ぬ病気なら、霧の日か夜にでも出てくりゃいいだろ。なんで今日なんだ?」

「霧があると飛べなかった」

「ヘリのことか?」

 サングラスは言いながらランスを湖の方へ突き飛ばした。

 ランスの体が1回転する。

 道路わきは湖へ向かって緩やかな土手が下り坂になっていた。

 毛布がはがれないよう、とっさに布の端をつかんだまま土手を少し転がり落ちたランスの目に車道を通過していく赤灯が見えた。

 サングラスが携帯電話を出した。

「毛布を脱げねぇんじゃ、目立ってしょうがねぇ。あと1時間も逃げきれねぇ。組の車呼ぶからよ。とりあえず俺と逃げろ。ただし条件2つある。おめぇ、真実を俺に話せ。なにがなんだかわからねぇじゃ俺もかばいきれねぇ。それとよ、馬に命令すんの忘れんな。ちょうど札幌へ競馬が来ているからよ。今度の週末連れていくからよ」

 サングラス男のデータがまったく入っていないランスの脳は未来を判断しかねていた。しかしあくまでも冷静だった。

「真実、話す。馬に命令する」

 他に逃げ延びる道はない。

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