ハチに乗って飛ぶ空・story46
宇宙でなにかの現象が起こるにあたっては必ず動機が存在する、と言われる。動機がなければ現象もない。
無感情のランスは檻の中での生活を嫌悪したことが1度もないので、終身をカムイッシュで暮らすことが確定したとしても、別に泣いたり、わめいたりしない。
現に4歳までのランスに檻からの脱出という考えはまったく湧かなかった。植物が根づいたところから動かないのと同じように、ここで枯れるまで生きる予定でいた。
檻からの脱出という考えが浮かぶようになったのは5歳になってからだった。考えは企画段階へ進み、まもなく実行段階へ入る。
1つ目の調合を終えたランスは苦く透明な液体を飲みほし、2つ目の調合を始めた。混合した薬の色が変わっていくのを見つめながら、考えた。
これから脱出という現象が起こる。動機はなんだろう。
生きたいという本能は理由にならない。無事に脱出できる保証はなく、脱出できたとしても未来は見えていない。
むしろ檻の中にいた方が命は守られる。施設の関係者にとって自分が貴重な存在であることにランスは気づいていた。少しでもせきこめば熱を測られ、わずかでも頭痛をうったえると丁寧に検査される。
自由に生きたいという本能があるのだろうか。しかし感情のある者なら束縛を悲しんだり、嫌ったりという心境になるのかもしれないが、ランスは平静だった。束縛されているというクオリアを感じたことはない。
誰もが地球に束縛されているとは考えないはずだ。生まれた時から地球に生きていれば、宇宙移住時代が来たとしても、地球で暮らしたいという本能がむしろ働くはずだ。
ランスは檻の中から出たいとは思っていないし、過去をふりかえっても思ったことはない。
なのに気づくと脳が脱出の確率を計算し、実行している。
脱出したいというクオリアは感じない。
クオリアが発生していないのなら、脱出計画に潜在意識は関与していないということだろか。それともクオリアは発生しているのだけど、顕在意識が認識していないのだろうか。
顕在意識が未熟だった時期=ほとんど潜在意識だけで生きていた時期は植物のような暮らししかできなかった。ほかの生活を考えることすらなかった。
顕在意識が熟してくることによって、外気温を測ろうという行動が自発的に生まれた。しかし外気温を測ろうというクオリアは認識していない。外気温を測りたいというクオリアがどんなものかわからない。自発的な行動をしようというクオリアがわからない。顕在意識はクオリアを認識し、行動を選択すると勉強したが、実はもっと大きな役割というか、力を持っている可能性がある。脱出の動機はそこにあるのかもしれない。
2つ目の調合を終えたところで、熱っぽさを感じた。熱っぽいというクオリアを認識した。計算より少し発熱が早いが、問題はない。2つ目の液体も飲みほし、3つ目を調合する。
脱出の時が近づいてきたが、鼓動速は変わらない。5年間暮らした檻や家具たちとの別れが近づいてきたが、別にどうでもいい。何十冊という小説を読んだが冒険的行為への出発や長年住んだ家との別れに、登場人物は感情を表現する。だがランスにはどうしてもわからなかった。
3つ目の液体を完成させた。水鉄砲へ液体を装填する作業を淡々とこなした。高下駄のピアノ線をきつく結びなおす作業も淡々とすぎた。
外気温を測定し続けた日々と変わらない速度で、椅子へ昇った。
いつもとちがうのはここからだった。換気口を開けるのではなく、換気口のプラスチック網を丸ごと外して床へ捨てる。換気パイプの直径が見え、直径をふさぐオオスズメバチの巣が見えた。巣へ指を突っこみ、床へたたき落とした。
大規模な空軍攻撃のようにオオスズメバチの編隊が舞い上がり、ランスを襲ってきた。1秒も経たないうちに取り囲まれたランスは肌の出ている手足はもちろん、服に隠れている場所へも、髪の毛におおわれている場所へも、針を撃たれた。
「刺されすぎたらダメ」
ランスはハチを手ではらいながら鉄格子へ近づき、1番高い音程で叫んだ。
「助けて。ハチが飛んできた」
看守Aが駆けつけてきたが、オオスズメバチは当然鉄格子を問題にしない。格子の向こうで看守Aの悲鳴が上がった。
ランスはハチをできるだけ手でたたき落としたが、動きを読んでいる余裕がないほどの大群だった。
「刺されすぎたらダメ」
もう1度つぶやいたところで、鉄格子が動いた。
「ランス。こっちへ走れ」
看守Bの声に向かってランスは走った。
「ランス。廊下の奥へ走れ」
まっすぐ走ると、廊下の奥で看守Cが細く開けた扉から混乱を見ていた。
ランスが突き当たる寸前に扉は開放され、追いかけてきた数匹のハチとともに飛びこんだ。
看守Cは扉を閉めながら「まだ走れ」と叫ぶと、さらに続く廊下を先に走り出した。ランスは後を追った。向かってくるハチをたたき落とし、看守Cへ飛びかかるハチもはらってやり、ようやく羽音が聞こえなくなったところでランスは倒れた。
看守Cの手が顔をおおってくる。
「救急長、急げ。ランスが刺された。ひどい刺され方だ。熱が出た」
ランスは痙攣してみせた。
「救急長、急げ。ふるえがきた。熱が出た」
発熱は1回目の液体が原因だから問題なかった。2回目の液体にはオオスズメバチの毒に対する抗体と鎮痛成分が調合されている。さすがに少し痛かったが、ショック症状はまったくない。むしろ痙攣の演技に苦心した。
看守たちはパニックになっていた。大切なランスの体にもしものことを起こすわけにはいかないという緊迫感が廊下に満ちていた。
「ここで手当てできるレベルじゃない。20箇所以上刺されている。発熱が急だし、痙攣もひどい。ショック症状だ。ヘリを呼べ。最高緊急処置だ」
“ヘリ”の言葉が聞こえた瞬間、脱出成功確率が急上昇した。湿度測定によれば霧が発生していないはずだった。しかし測定は不完全だったし、むしろ霧の日の方が多い季節だったから、ヘリを呼んでもらえるという確信はなかった。
「市立釧路病院はまだドクターヘリの認可申請中だ」
「緊急の場合はもう使っていいことになっている。この施設があるからこそ作らせたヘリポートだぞ」
ランスは目を閉じたまま、痙攣の中断と再開をくりかえした。
廊下に寝かされたまま、しばらく患部に氷を当てる応急処置が続いた。下駄を脱がされそうな感触がある。下駄を奪われると計画は行きづまるが、結び直したピアノ線はきつく、やがてあきらめる手つきが伝わってきた。
タンカがガチャガチャ近づいてくる。
タンカにのせられるクオリア、全身を毛布で完全におおわれるクオリア、タンカがふらふら運ばれるクオリアを、目を閉じたまま認識した。
エレベーターで浮上するクオリアは初めてだったが、すぐに慣れた。
エレベーターから出たのがわかった。
映像で聞いたものとは全然ちがうヘリコプター音のクオリアが飛んできた。翼の旋回音に怒声がからまった。
「展望台の観光客が見ている」
「ニジマスの密漁者が事故を起こしたことにしろ。マスコミでもなんでも抑えられる。それよりランスの毛布に気をつけろ。ランスを太陽や風に当てるな」
ヘリコプターへ積まれるのがわかった。飛び立つ前に注射を打たれた。
「窓をふさいでくれ。ランスに太陽を当てるな」
「応急処置が先だ」
「窓をふさぐ方が先だ。ハチに刺された以上のショックが起こる」
空を飛ぶクオリアは想像していたものではなかった。物理法則的には空中にいても地上にいても地下にいても体感クオリアは変わらない。揺れるクオリアはあるが、平均台がぐらつくのと同じだった。
機内の窓は黒くふさがれた。
毛布をはがされたランスは座薬を打たれ、体温計を耳に入れられ、後はひたすら全身を冷やされた。痙攣の演技に疲れ、ぐったりした腕から脈を測られた。
丸暗記しておいた市立釧路病院の施設案内図を脳裏で復習する。
ヘリコプターが着陸態勢に入るのをなんとなく感じた。
着陸した瞬間ははっきり感触があった。目を開け、機内を見る。看守Dと医師、看護士、操縦士の4人態勢だった。ヘリコプターの扉が開いた瞬間、起き上がったランスは下駄の棚から取り出した水鉄砲を4度発射した。目に劇薬を浴びた4人はヒザをついて泣き叫んだ。
ランスは毛布を頭からかぶり、屋上のヘリポートで待機していた5人の男たちへも水鉄砲を次々向けた。
不意を突かれた5人も同じ姿勢で崩れる。
「太陽はダメ」
初めて太陽光を浴びることによるショック症状を恐れながらランスは走り出した。
すぐに気管が苦しくなった。
「これが本当に空気?」
走ることができなくなったランスはフラつく高下駄をなんとか操縦しながら、必死に階段を目指した。