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神様のような少年・story45

 マジックPは脳が感情を認識する行為を“無駄”と決めつけた。

 顕在意識が感情という無駄な附帯クオリアを認識しなければ、改造脳の潜在意識から出される膨大な骨格クオリアを認識処理しても耐えられる可能性があり、改造脳の抱える認識容量問題を解決できるかもしれない。あくまでも希望的推測だったが、少なくとも実験する価値はある。

 檻の中で生まれたランスは感情を表現すると罰があたえられる生活を強いられた。

 と推測される。

 2歳のころから驚異的な知能指数を見せ始めたランスにしても、さすがに0歳や1歳時の記憶はない。乳児期の脳は顕在意識が未熟なためクオリアの認識という作業をしないので、クオリアでしか記憶を再生できない人間にとって自身の乳児期はやがて無になってしまう。

 代わりに潜在意識=無意識が懸命に学習をくりかえし、顕在意識に自己が芽生えるまでの人生を支える。

 この時期、例えば泣きわめくなどの感情表現をした場合は食事をあたえられず、泣きやむなどした時にすかさずミルクを飲ませてもらうと、潜在意識は感情表現が死につながると学習し、やがて感情のクオリアを発生させなくなる。マジックPは顕在意識のクオリア認識を削ろうとしたのだが、潜在意識が附帯クオリアの発生自体をやめてしまう結果になった。

 ランスは感情を知らない。感情というクオリアを知らないため、想像すらつかない。無重力空間で泳ぐという感覚がほとんどすべての人に想像つかないのと同じレベルで感情を知らない。

 無重力空間という名称をほとんどすべての人が知っているのと同じように、ランスも悲しみという言葉を知っている。寂しさや悔しさや怒りのほかにも多くの感情語を学んだ。

 太陽、風、列車などの単語も悲しみと同等に、クオリアを1つも知らないまま、地下檻の机で膨大な知識だけが次々詰めこまれた。

 2歳から始まった猛勉強は訓練という言葉がふさわしいほど厳しい内容だった。

 しかしランスは厳しいという言葉の意味も理解しかねる。厳しさが当然の日々だったからだ。日本語を学び、数学を知り、物理や生物、地理、歴史などを習得した。

 1日が24時間であることを知り、時計というものの機能を知り、絵で形を学んだが、現在が何時であるかを知る手段はなかった。起こされた時に起き、あたえられた時に食べ、学べと言われたことをすべて学び、寝ろと言われると布団をかぶった。

 檻から出られることは時々あった。運動のためにプレールームへ行き全力疾走や器械体操をしたり、小さなカプセルの中で擬似日光を浴びながら物理単語の暗唱をしたりする時だけ、檻の中から出られた。

 だが地下から出ることはまったく許されない。太陽も雨も映像で見せられたが、本物の太陽光のクオリアは知らず、雨に濡れることとシャワーで濡れることとに、はっきりとしたクオリアのちがいがあることも知らなかった。

 なにより施設がどこにあるのかを知らない。日本という国にいるのだと想像はついた。日本語の教育が先んじ、英会話の勉強が遅れたことから推測した。テキストもすべて日本語だった。

 マジックPの計画は順調に見えた。

 4歳になってもランスには感情がまったく見られない。潜在意識は感情のクオリアを発生させるという無駄な作業をしないせいか知識吸収が異常に速く、元々の高知能資質と合わせ、幼児とは思えない才気を見せた。

 だがマジックPの摩周湖プランには大切な項がもう1つあり、こちらは破綻へかたむいていく。

 このころ、大雪山系の施設では問題点が浮上していた。実験体の中で唯一生き残った田村様が檻から抜け出してはまた戻ってくるというイタズラ行為をくりかえす。すでに田村様は檻の中に住む君主だった。君主であるがゆえに、また檻へ戻ってくる。

 マジックPにしてみれば、せっかく改造脳の人間を作ったとしても、主従が逆転するようではまさに本末転倒だった。主導権をマジックPがにぎり続けるためには、自己を持たない顕在意識に、改造した潜在意識を認識させる必要がある。顕在意識に自己を持たせない方法は0歳からの徹底教育しかなく、ランスを感情だけでなく、自己もないロボットとして育てあげることが摩周湖プランの大切なもう1つの項だった。

 しかしどんなに綿密な教育計画を立てても、人間は生物であり、機器ではない。

 ランスが自発的行動を取り始めたのは5歳になってからだった。ただし誰も見ていない時だけ。看守の目前では自己を隠しとおした。潜在意識は自己を看守へ表現することがマイナスになると判断し、そのクオリアをランスは忠実に認識していた。

 どうしても自己を発揮したくなった時、ランスの視線は地下檻から外部へ通じる唯一の場所を見上げるようになった。顕在意識にその気がなくても、潜在意識側に芽生えた自己は自然と地上へ思いをはせているようだった。

 幸い檻の中に監視カメラはない。あまりに幼すぎるため不要と判断されたらしい。

 看守が檻の前の廊下からいなくなるたびに、ランスは椅子の上へ登り、天井近くの壁に取りつけられている換気口へ手を伸ばした。換気口はプラスチック製のフタで作られており、レバーを下げると完全に閉じられ、上げると虫が1匹なんとか出入りできる程度のプラスチック網が現れる。プラスチックのフタを外すと網も一緒に外れてしまい、子どもが1人なんとか出入りできそうな太いパイプが見える。

 プラスチックのフタを外したランスは手が伸びるだけ奥へ室内温度計を突っこみ、パイプ内の温度を測った。換気口から伸びるパイプは外気に通じている。手が届く場所は地下1階のため正確な外気温は測定できないが、大まかな気温変化はわかる。

 くりかえすうちに朝と昼を知り、さらにくりかえして季節を知った。本から学んだ地球の様子へ、地下檻で暮らし続けてきたランスが初めて接する瞬間だった。

 ランスは温度計に付属している湿度計も駆使し、隠密測定を始めてから1年後に自分の所在地の絞りこみに成功した。日本国内でこれほど低温多湿な地域は限られている。

 北海道東部の膨大な水の近く。換気パイプの中へは地上の音が反響するはずだが、流れも波音も聞こえないため、膨大な水といっても河川や海岸ではない。

 地図と資料を広げ、湖沼を探す。換気パイプからは人の気配もまったく聞こえて来ないため人間は1人も近づいていない。冬季の数週間だけ極端に気温が下がるのは近くの水面が氷結した影響を受けている可能性がある。

 屈斜路湖は湖底から温泉が湧くうえ釧路川が流れ出るなど水流が激しく長期間氷結することはない。

 阿寒湖は氷結するがワカサギ漁やスケート競技などが湖面で盛んに行われているため歓声が響くはずだ。

 ランスは地図に書かれた摩周湖の字を見つめた。条件に合致する場所はここしかないが、湖畔が崖に囲まれているので地下施設は作られそうにない。施設はまちがいなく水面近くにあるはずなので、計算が合わない。

 湖に小さな中島が浮かんでいる。アイヌ語で“神様のような老婆”の意味になるカムイッシュという島名を脳へ刻みこんでから地図を閉じた。

 少年が自力でできるのはここまでだった。後は天がくれるチャンス=偶然を待ち、その日までひたすら地上へ夢急ぐ自己を押し殺すことと、チャンスが来たとき必ずモノにするよう心身両面のパワーと、脳の力をみがき続けるしかなかった。

 檻の中へ毎日やってくるクモがいる。孤独に生きるランスへ、宇宙で漂流していたら地球人とばったり出会ったに等しいクオリアがクモに対して発生する。

 カバキコマチグモと呼ばれるクモは小さな毒を持ち合わせているが、そんなことはどうでもいい。孤独な宇宙で出会った人間の性格など問わない。

 時には2匹の対で登場するクモをランスは目で追った。動くものに出会ってうれしいというクオリアはすでに失っているが、看守の足音以外に動くもののない檻の中で、退屈している視力を刺激されるというクオリアがあり、いつまでもクモを見ていた。

 やがてクモの動きが読めるようになった。クモが右に曲がる前に、右への軌跡を想像できた。止まるタイミングも、足を小刻みに動かすタイミングも先に知り得た。データを蓄積するとカンが働き、未来は99%読める。

 食事は食事と呼べるレベルではなく、最低限の栄養だけあたえられていた。消化に使うエネルギーを最小にし、なるべく脳へエネルギーが回るようにする。改造脳となった日のために、体へクセをつけるためだった。

 ランスの足の指には高下駄がピアノ線できつく結ばれていた。高下駄で地下の床を踏むと足音が響くため、万が一逃走しても看守の耳がふり向いてしまうし、高下駄では全力で走られない。

 しかし全力疾走できないだろうというマジックPの考えは甘かった。人間は慣れる。まして生まれた時から高下駄ばきなら、下駄こそがランスの足だった。フリールームの運動ではピアノ線を外され素足になるが、むしろ走りにくいクオリアがあった。もちろんランスは申告しなかった。自己を表現してはいけない。

 2009年の夏、チャンスがやってきた。ランスが暦を知るのは後日だが、運命的な夏になった。

 換気口のプラスチック網へなにかがドサッとぶつかり、見上げた目にオオスズメバチが2匹登場した。網目をすり抜けたらしい2匹はエンジンでも積んでいるのかという羽音で檻の空を飛んだ。

 ランスはすぐに換気口へ走った。地上から転落してきた大きな巣と数十の羽音がプラスチック網の向こうでうなっている。凶暴性は資料から把握していたつもりだったが、実物を目の当たりにして把握していなかったことを知った。

 換気口を閉めて凶暴な音を遮断すると、檻の中に飛び出ていた2匹へふりかえった。

 ランスに恐怖というクオリアは発生しない。冷静に2匹の動きを観察できる。やがてオオスズメバチがウインカーを出すかのように旋回方向を教えてくれるようになると、動きを読みきった手に生物学のテキストを持ち、2匹をたたき落としてからすぐにテキストを開き、オオスズメバチと人間の体について復習すると、化学のテキストを開いた。

 脱出計画を布団の中でまとめながら、1度眠った。

 夢の中をオオスズメバチの背に乗った自分が飛んだ。

 起床後、ランスは初めて自己を表現した。

「毒グモを退治するための殺虫剤を作りたいので、化学薬品をください」

 紙に書かれた薬品名を持った看守はどこかへ行った。看守と研究者たちの協議で却下されたらチャンスは消える。

 ランスは待ち時間を利用して換気口のレバーを上げた。オオスズメバチの巣があるためプラスチック網を外すことはできないが、温度と湿度を測定しなければならない。

 パイプ内の子ども1人なら通行可能なスペースいっぱいに羽音が反響していた。巣が落ちてきたのだから、外部の換気口の網が破れていると断定できた。

 巣があるため不完全だが、なんとか地上の温度を推測した。測定中にプラスチック網の目から5匹のオオスズメバチが檻の中へ入ってきたので、素早い羽音をさらに素早くたたき落とした。続いて、ハチの臭いがする手で、昇降に使っていた木製椅子の材木を少しだけ剥がすと、工作用の接着剤で高下駄の歯間へ棚を1段作った。

 1時間後チャンスが届けられた。

 看守はあらゆる面で自分の脳を超えているはずの少年を見下ろした。

「水鉄砲はなにに使うのか?」

「クモを狙い撃ちします。他の方法では薬品の無駄づかいになります。水鉄砲が最も効率的です」

「確かにわたせる薬品は極めて少量だ。劇薬もふくまれているので本来なら許可ならないが、薬品調合はいい勉強になるので特別な許可が出た。ただし調合が終わったら報告すること。クモへ使用するときは立会いを求めること。調合が成功するしないに関わらず、72時間後にはすべて撤収するので忘れるな」

「はい。わかりました」

 72時間など知ったことではなかった。

 少なくとも2時間後には檻から出ているはずだった。

 檻から出られたとしても、湖水や崖という障壁が待っている。温度計から正午ごろとほぼ特定できたが、ハチの巣のせいで湿度計測が不完全に終わったため、重要なポイントになる霧の有無は賭けだった。

 しかしランスの脳には人間らしい恐怖も迷いも自信すらない。成功も失敗もすべては確率で表現されるだけで、感情的になったりはしない。神様のように淡々と脱出計画を進めるだけだ。

 届けられた薬品を調合し、3種類の液体を作る。

 孤独な目に優しかったクモを殺すつもりは最初からなかった。

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