湖檻の産声・story44
上空を野鳩が飛びました。わたしは反射的に動いた両手で顔をおおいました。
「あの鳩は田村様の“誰もいない”という情報を受けていないでしょう。わたしたち見られたよね」
「ヒヒヒ。だいじょうぶ。田村様の敵は野鳩を使わない」
「どうして鳩なんか使うの? あんな高さからじゃなにも見えないでしょう」
「フヒヒ。鳥の視力は異常に優秀。あの高さから地上のハチを見分けることもできる」
「まだ小学校低学年くらいなのに、ランスはかしこいね」
「ハハヒ。毎日勉強漬けだった。勉強すると低学年でもかしこくなる。しないと大人でもバカ」
「摩周湖で勉強したの?」
「ヒヒヒ」
「檻に入れられたの?」
「ハハヒ」
「何歳から?」
「ヒヒフ。檻の中で生まれた」
「お母さんは?」
「フフフ。みりさちゃんは摩周湖に行ったことがないの?」
「ない」
「ハハヒ。ボクは摩周湖から出たことがなかった。湖からというより、檻の中から出たことがほとんどなかった。でもなんとも思わなかった。地球から出られないことをなんとも思わずに生活している人類と同じ心境」
ランスはまだ短い生い立ちを教えてくれました。ランスの口調をそのまま引用すると、薄ら笑いが盛んに入ってしまうので、簡潔な文章に直します。
摩周湖は北海道東部に位置する湖で、面積を乱暴に表現すると、猪苗代湖の5分の1くらい、浜名湖の3分の1くらい、印旛沼や池田湖の2倍くらい。
特徴的な部分が非常に多く、神の残した奇跡の秘境という大げさな表現もある。
切り立つ険しい崖に囲まれた盆地の底に沈む典型的なカルデラ湖であり、出入りする河川はない。湖の南西部の崖上を道路が走り、展望台もあるが、崖の上から岸へ下りるには転げ落ちるしか術はなく、人は湖水へふれることすらできない。
出入りする河川がないだけでなく、周囲に温泉街どころか人家すらないためヒューマンタッチによる汚染も見られず、また崖上の山林へ降った雨が崖面から染み出てくるころには自然ろ過されているので、湖水は圧倒的な透明度の高さをほこり、二次大戦前は世界トップクラスだった。しかし戦後、原因不明の透明度低下が見られ始め、現在では国内トップの座も危ういところへ来ている。
北海道東部は夏季になると太平洋高気圧から北上してくる暖気が、寒流の千島海流にふれることで、霧が発生しやすくなる。
霧はまさに透明度ゼロの濃霧となり、大気より重たいため、大地へくぼんだ摩周湖をおおい隠す。展望台へ登っても、崖上の視界はきくのに、湖面はまったく見えない日が多い。
湖にはカムイッシュと呼ばれる中島がある。湖に沈んでいる山の頂上部分だけが湖面へ見えるという形状の島であり、カムイッシュの地下は膨大に広い。
政府が極秘裏にカムイッシュ地下施設の建設を始めたのがいつなのかわからないが、戦後からの急速な透明度低下が原因不明であることと、施設が大規模であることから、数十年前に建設を始めたと思われる。周囲に人の気配がないため夜間は完全な闇に包まれ、昼間もとっぷりと霧に埋もれることが多く、崖という天然城壁が人を寄せつけない環境は極秘施設の存在場所として充分にふさわしい。
カムイッシュは人を寄せつけないと同時に、内部の人間も逃がさない。夏は深い湖水と霧に包まれ、冬は結氷する日がある代わりに氷点下10度を下回る寒さが太陽の下でも温められることなく逃亡者を締めつける。さらに季節を問わず崖が立ちはだかる。
マジックPは第一期段階の実験として大雪山系や日高山脈で、すでに生まれている人間を使った実験を行っていた。
しかし研究者たちは最終段階の実験をこれから生まれる人間で行うつもりだった。人間の脳は先天的な資質以上に、後天的な学習によって性能やクセを決定づける。すでに学習がくりかえされてきた脳ではなく、学習ゼロの脳を使う方が目的へ到達しやすい。
実験用の人間が生産された。生産地の所在は不明だが、先天的な資質も考慮された上で父と母が選抜され、計算された受胎行為と妊娠生活を営む施設がどこかにあり、母は妊娠後期になるとカムイッシュへ移動し、檻の中で出産する。
ランスが生まれたのは7年前。ただちに母親は外へ出され、産声は檻の中で孤独に響いた。やがて泣くこともしなくなる男児は驚異的な知能指数と運動能力を計算配合により、受け継いでいた。