湖の少年・story43
ランスが拾ってきてくれた靴をはいてから15分ほど歩くと、小さな池のほとりで笹薮が終わりました。
池は野球の内野ベースを線で結んだような大きさと形で、あちこちから雪解け水がダラダラ流れこんでいます。流れ出す川のようなものは見えませんが、池の水がみるみる増えているようには見えませんので、どこかでどうにかなっているのでしょう。
わたしは笹薮と池の間に2メートルほどある濡れた土の岸辺へしゃがみました。水面はきれいですが、底が浅いようにしか感じられず、食べられる魚などいる気がしません。
ランスは高下駄をはいたまま、池の中へ入っていきます。
「魚なんかいるの?」
「ヒヒヒ。一口サイズがいる」
「釣ざおは?」
「ヒヒフ。手でつかむ」
「無理に決まっているでしょう」
ランスの後ろ姿が池の中央へ近づくたびに、足が少しずつ水へ隠れていき、短パンと水面が近づきます。
池の周囲はぐるっと笹薮になっており、笹の背景には高い樹が黒々と密集しています。スポットライトのように太陽を浴びる水面は水というより大きな鉱石の表面のようで、ランスを動けなくしてしまいそうな力強い輝きを空へ向けています。
ランスがピッチャーマウンドの手前あたりで止まると、太ももにある水面がランスに乱されて輝きを失いました。頭を下げてじっと水中をにらみつけるランスが水の力を吸いとったように見えます。
動いたのは一瞬でした。ランスが水をたたき、わたしの方へ水を投げつけました。
わたしの横に野球ボールの直径くらいな魚が現れました。
魚は岸を蹴って新鮮に跳ねます。呼吸の苦しさがはっきり伝わってくる身のよじりを見せます。
ランスは少しずつ水面の輝きを壊しながら移動していき、5回立ち止まり、5回水面をなぐりつけ、1度もミスなく総計6匹の魚をわたしへ投じました。
水から上がってくると水鉄砲を出して消毒液でもかけるように自分の足へ何度か発射してから、笹の葉をちぎって魚の上へかぶせました。
「ヒヒヒ。太陽から守る」
「すごいね。毎日魚を獲る野生の生物でも、あれだけ上手にはいかないでしょう」
「ハハヒ。魚を買うのは簡単。でも死んだ魚ばかり。冷静に考えたら、買う価値ない」
「買う価値のある新鮮な魚はお金じゃ買えないのか。なんか不思議だね」
ランスは笹を何十枚も抜いて濡れた土の上へ敷きつめました。わたしたちは寝転がって休むことができました。
「ヒヒフ。田村様は緊張しながら寝ている。少し1人にしておく。みりさちゃん、お腹すいた?」
「全然」
「ヒヒヒ。じゃあ帰ってから魚を焼くための炭を起こす。みりさちゃん、眠くない?」
「昨日も睡眠時間足りなかったし、今日は一睡もしてない。眠くなるはずだけど、この姿勢になってもさっぱり眠気が来ない」
小さな鳥が空を高速で横ぎります。ランスは水鉄砲を持ちかけましたが、すぐに下ろしました。
「ヒヒヒ。田村様の敵は鳩だけじゃなく、ハチや魚も偵察用に飛ばしたり泳がせたりできる」
「ハチもそうなの?」
「ヒハハ。まだ本物のハチが自然活動するには季節が早い」
「だから田村様は“人間がいない”みたいな情報を飛ばしたの?」
「ハハヒ。姿を見られたくない」
「でも、いる場所がバレているから鳩やハチが飛んでくるんでしょう。意味がないんじゃない」
空を見ていたわたしはランスの方へ、寝がえりを打ちました。
ランスが水鉄砲を指でくるくる回します。
「ヒフフ。みりさちゃんの姿を見られたくない」
「田村様の敵は誰なの?」
「ハハヒ」
ランスは返事をしません。
少年の笑顔は地の表情ですが、黙ったままだと、会話をごまかす笑いに見えてしまいます。
わたしの声がイライラした音になります。
「田村様は、敵と味方と自分を知れ、って言ったけど、自身のことはあまり教えてくれなかった。大雪山系の実験体は田村様だけ生き残ったわけでしょう。でも檻に入れられていたはず。田村様は脱走したの?」
「ヒヒヒ。田村様のことは田村様に聞いてほしい」
「大雪では田村様だけ生き残って、日高ではあの人だけ生き残ったはず。でも田村様の敵も改造脳なわけでしょう。摩周湖の出身なの? それとも大雪や日高で続々と新しい改造脳を作っているの?」
「ハハヒ。続々作ったとしても、すべて生き延びられるほど簡単じゃない。それに日高の実験棟は脱走劇の直後で実験や手術どころじゃないし、摩周湖では最初から改造脳を作っていない。大雪山系の新しい実験はまだ現在進行中と聞いた。だから施設外で正式に確認されている改造脳者は田村様だけということになる」
「それじゃあ田村様の敵は誰なの? 改造脳のはずでしょう」
「ヒヒヒ。田村様のことは田村様が起きてから、本人に直接聞いてほしい」
「じゃあ聞きに帰る」
わたしは上半身を起こしました。
「のんびりしすぎ。眠ったり、魚獲りをしたりしている場合じゃないでしょう。マジックPの人たちは産科で全員気絶したんだよ。改造脳がわたしを助けたとしか考えないでしょう。改造脳の人が田村様しか確認されていないなら、バレバレでしょう。田村様の敵が田村様の居場所を知っているなら、マジックPだっていつ知るかわからない。きっとわたしと幸せくんを殺しに来るよ」
「ヘヘヒ。来てもトラックは空っぽにしか見えない」
「誰かが来たら、田村様がまた無人情報を出すの? 寝ているじゃない」
「ヒヒハ。緊張している。ボクたちを守るために熟睡できない」
ランスは耳元の笹の葉をつかみ、アイマスクのように目へのせました。
「ヒヒヒ。追いかけてくるマジックPを田村様は恐れていない。マジックPは何度も田村様を捕まえようとしたけど、姿を見ることすらできない。田村様はすべての脳を支配する人。改造脳ではなく、完全脳。脱走なんか簡単。相手に“田村様が檻にいない”という情報をあたえる。マジックPは檻の鍵を開けて中を調べるから、そのすきに脱走する。誰もが脳に“人はいない”という情報と“代わりの背景”の情報をあたえられるから、気づきもうたがいもしない。改造脳が透明人間を産むことになるなんて、マジックPの計算外」
「わかっているなら、さっさとしゃべりなさいよ。でも産科で気絶させられた人たちや、トイレに来た男は田村様を見たかもよ」
「ヒヒフ。男は田村様を見ていない。なにがなんだかわからないまま、たぶん、みりさちゃんと幸せくんに気絶させられたと考える」
「わたしたちのせいにできるの? その調子じゃ田村様は世界の支配者になれるでしょう」
「ヒヒヒ。マジックPの目的がまさに世界支配だった。でも田村様はちがう目的を持った。目的変更のためにみりさちゃんが必要」
「どうしてわたしが。そもそもどうしてわたしに気づいて、産科へ来たの?」
「フフヒ。田村様のことは田村様に聞いてほしい。みりさちゃん、しつこい」
「しつこいとはなによ。知っているなら話しなさいよ。こっちは疑問だらけで、かわいい脳がパンクしそうなんだから。咲藤さんに頼まれたと言っていたけど、咲藤さんはわたしが産科に行くなんて知らないはず。どうして先回りしていたの?」
「ヒヒハ。摩周湖の実験棟で暮らすと、未来を知る能力がつく。Fの領域へ近づける」
ランスがアイマスクを外しました。目つきから少年らしさが消えた代わりに鋭さと暗さが真剣に放たれています。
「ヒヒヒ。この池には川がない」
「川がない?」
「ハハヒ。湖を管轄するのは国交省だけど、国交省の湖の定義は“河川によって海や外部とつながっていること”。国交省は支笏湖や洞爺湖や阿寒湖は管轄するけど、摩周湖は流れこむ川も出る川もないから、湖ではなく“大きな水たまり”扱いなので管轄していない。この池と同じに見えるらしい。役所は不思議な所」
「それで?」
「ハハヒ。豆知識」
ランスがまた少年らしい笑顔になると、笑いを隠すようにアイマスクをかぶせました。
「ふざけないで」
わたしはランスの笹の葉を奪い、少年の閉じているまぶたを指で弾きました。
「田村様はわたしに“敵を知れ”と言ったよ。摩周湖の実験棟のことを知っているなら、ちゃんと教えて」
「ヒヒヒ。じゃあ次の豆知識」
「豆知識はどうでもいいの。なんなのあんたは」
「ヒヒフ。ランス。地球人」
「だいたいあんたがおかしい。トラックを運転したり、魚をつかみ獲りしたり。田村様はわたしに“味方を知れ”と言ったけど、あんたはなに? 自然脳とか言ったけどあきらかにふつうじゃない。田村様はどうしてあんたにだけ姿を見せるの?」
「ヒヒフ。仲良しだから」
わたしは手を伸ばし、ランスの高下駄を片方脱がしました。長すぎる下駄の歯の間に、棚のように薄い仕切りが4つあり、水鉄砲が4つ収められています。
「あなたの正体は水鉄砲マニア?」
「ヒフフ。下駄もマニア」
「ふざけないで。そもそも笑い方が気にいらないの。どうしていつもヘラヘラしていられるわけ? 味方ならわたしの気持ちを知ってよ。わたしは命を狙われているの。お腹に守らなきゃならない命がいるの。携帯も失ったの。ヘラヘラされるとムカつくから」
「ヒヒフ。笑うのは修正不能。ボクは笑うしかできない」
「なんなら殴りつけて泣かせようか」
「ヒヒヒ。不可能。ボクは笑うしかできない。人間は感情を失うと無敵になる。附帯クオリアの認識をゼロにし、骨格クオリアだけを認識するようになると顕在意識はとても安定する。潜在意識がどれだけ高性能になっても耐えられる可能性がある。摩周湖の実験棟では顕在意識から感情の認識を奪いとる実験が行われていた。ボクは生まれた時からそこにいた。とても孤独で悲しい檻だったけど、悲しいという感情も少しずつ奪われていった」