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笹薮の逃亡・story42

「運命なんて言われても」

 わたしはフォークで持ち上げた肉を空中で止めてしまいました。

 マジックPという国家的機関との善悪関係を逆転するなどという話はわたしの脳に重すぎます。想像もつかない領域です。気合を入れて取り戻した食欲がゼロになり、肉をフォークごと皿へ捨てました。

「田村様。わたし、運命とか困ります。感情の証明なんて難しそうなことわかりません」

 ランスが換気扇を止め、七輪を外へ運びます。重たそうな七輪ですが小さな体で後部扉のそばまで運ぶと七輪を床に置き、地面へ飛び降りてから七輪も下ろし、水鉄砲を発射しました。蒸気が音を吹きながら立ち上ります。

「フフヒ。みりさちゃん、肉は嫌いなら、魚を獲りに行こう。田村様の邪魔をしない」

 田村様の方を見ると、テーブルのそばへすわっていたはずの巨体がいつのまにかベッドへ寝転がっていました。床にすわりこんでいるわたしからは、せり上がった腹しか見えません。

「ヒヒヒ。扉を閉めるから、行こう」

 食欲はありませんし、魚釣りへ行く気分でもなく、状況でもないような気がするのですが、ランスが扉の片方を必死に押している姿を見て立ち上がりました。

「フハハ。こっち手伝って」

 七輪の横へずり落ちたわたしはもう片方の扉押しを手伝ってから、山を登り始めたランスを追いました。トラックの周囲は笹がなぎ倒されていますが、少し離れると女の肩より高く笹薮が伸びています。

 高下駄をはいているランスはわたしの手を引くと笹薮の中へ入りました。笹薮はゆるやかな登り斜面になっており、雪解けの水分で濡れているため足元が滑りますが、ランスはわたしの手を痛いくらいの速度でぐいぐい引っぱっていきます。

「ランス」声を出したくちびるの中へ笹の葉が入りこんできます。苦い緑をこらえながら「ランス」とまた呼びかけたところで靴が1つ脱げました。靴を拾うために手をふりほどこうとした時、「ヒ。止まるな」ランスの声が緊張しました。笹藪の登り勾配がきつくなってきましたが、高下駄の少年は足どりをゆるめません。むしろ速度を速めていきます。

 スピードに乗って笹をこすったのか、素手に切り傷の痛みを感じます。靴が脱げた側の靴下がなにか硬いものを踏み、痛いと感じた途端、また別の痛みを踏みます。

 急にランスが停止したので、背中へぶつかってしまいました。

「どうしたの?」

「ヒ」

 ランスは背伸びをして笹薮から目を出しました。

 わたしは荒い息をつなぎます。

「いったいどうしたの? どうしてこんなに急ぐの?」

「ヒヒフ。そこにハチがいる」

「どこ?」

「フフフ。みりさちゃんの後ろ。ずっとついてきた」

 わたしは手足の痛みを忘れて頭をすくめました。ハチの羽音がわたしの後頭部をかすめて飛んでいきます。

「びっくりした。香水の匂いが抜けていないのかな」

 ランスがわたしの手を引っぱり、ふたたび歩き出しました。

「ハハヒ。あのハチはみりさちゃんに気づいていない。だいじょうぶ」

 わたしはランスの手を引っぱり返すように停止しました。

「ランス。あなたは車の運転ができるけど、子どもなのはまちがいない。勝手に走り出したり止まったりしないで、わたしに相談して。ハチに会ったら逃げるより、じっとしている方がいいし、買ったばかりの靴が途中で脱げてしまったから拾いたかったの」

「フヒヒ。急がないと、みりさちゃんはボクの姿が見えなくなるところだった。ボクもみりさちゃんが見えなくなるところだった。声も聞こえなくなる。相談もできない」

「なにを言っているの? 勝手に走る方が見失うかもしれないでしょう」

 羽音が聞こえたと思った瞬間、ハチがくちびるの切り傷に当たりました。悲鳴を上げたわたしを見ながらランスがニヤニヤしています。

「なにがおかしいの。この山はなに? 雪が解けたばかりなのに、大きなハチがたくさんいる。あんなのに刺されたら死んでしまう。危ないから戻ろう」

「ヒヒフ。ハチにはみりさちゃんが見えていない」

「まさか。なにを言い出すの?」

「ヒヒヒ。ボクが走ったのはハチがいたからじゃなく、田村様から逃げるため」

「田村様?」

「ヒヒハ。田村様は“人間なんか1人もいない”という光子情報を周囲の脳へ出した。無差別に出した。のんびりしていたら、ボクたちも巻きこまれるところだった。相手が見えなくなると、手もつなげなくなる」

 ランスがわたしの手をしっかりにぎり、空いている手に水鉄砲をにぎりました。

「ヒヒヒ。幸運の水」

 やわらかい水がわたしのくちびるについた傷をなでました。

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