鳩の盲点・story37
トラックは未舗装の道へ入ったのか、箱が揺れ始めました。横たわっている田村様の脂がぶよぶよ前後します。
わたしは睡眠不足の幸せくんが目をさまさないよう、立ち上がってバランスをとりながら、揺れを自分の脚の関節へ吸収しました。
「17分揺れる。立ったままじゃ、もたないぞ」
忠告してくれる田村様へ、わたしは質問しました。
「病院のトイレへいつの間に入ってきたのですか?」
「入ってきたじゃない。入っていただ。みりさ野郎が入ってくる前からいた」
「いなかったはずです。無人を確認しました」
「みりさ野郎の脳へ、トイレは無人だという情報を送った。人間の潜在意識は真実をクオリア化するのではなく、あたえられた情報を顕在意識へクオリア化する」
「脳へ送ったのですか? でも、わたしの目はトイレが無人かどうかを確認しました。わたしの目が得た情報はどうなったのですか? 脳へ送られてきた情報とは別じゃないですか?」
田村様は起き上がり、壁へ寄りかかってすわりました。
「トラックの箱の壁は粒子レベルだと凸凹だが、みりさ野郎の目には直線に見えるはずだ。潜在意識が厳密な光子情報をすべてクオリア化すると、たった5%の容量しかない顕在意識はパンクしてしまう。そもそもクオリア化というのはたった5%の顕在意識が情報を認識するための、情報簡略化作業だ。5%の顕在意識へ情報を100%伝えてもパンクするので、脚色するわけだ。最適化と言ってもいいかな。盲点の話を聞いたことがあるか? 目のレンズの構造上、どうしてもとらえることのできない部分が視野の中央にできる。これが盲点だ。しかし視野の中央に盲点が存在すると、顕在意識の認識作業効率が悪くなるので、潜在意識は盲点へ色を塗る。もしもみりさ野郎が画用紙を見つめた場合、白一色の視界のどこかに盲点ができるはずなのだが、それでは画用紙の質感を上手にイメージできない。潜在意識は周囲が白なら、盲点部分もきっと白だろうと推測し、クオリア化の際に盲点を白く塗る。しつこいようだが、潜在意識は真実を100%クオリア化するのではなく、顕在意識が認識しやすいよう、つまりみりさ野郎が生きていきやすいように情報を脚色しているわけだ。トイレへ入ったみりさ野郎の潜在意識は現況に対して2つの情報を受け取った。俺様が発した無人という光子情報と、目が感じた有人という可視光線情報とだ。2つの異情報が重複した時、顕在意識にとって都合のいい情報が優先的にクオリア化される。追われていると感じていたみりさ野郎は、トイレが無人だったら、と願っていたはずだ。だから無人という情報が優先された。人間の脳は自己中心的なので、自分に都合のいいクオリアを優先的に発生させ、道を誤ることがある。ギャンブルに飲まれるヤツはこのパターンにはまる。幽霊を見るヤツもだ。注意した方がいい」
トラックが大きくバウンドしました。
凸凹だというまっすぐな壁へ手を押しつけてバランスをとっていたわたしですが、衝撃を支えきれずに転倒しかかったところで、急に体が全自動で元へ戻りました。
「すわっていろ。羊水は海のように広く優しい。小魚野郎の心配はいらん」
「田村様はどうして、わたしの体を操作できるのですか?」
「潜在意識へ“手を動かした方がいい”という情報を送ると、手を動かす。反射作用の利用だ。熱いヤカンから手を引っこめるための神経を情報操作している。小魚野郎も同じ原理でみりさ野郎の手足を動かすはずだ」
トラックが停止しました。
「15分か。ランス野郎、はしゃいでやがる」
後部の扉が開きました。暗ずんだ森が深く、高く生い茂った木の葉の所々から光線がいくつか刺さっています。
田村様が飛び降り、わたしは降り口へすわってから両足を下ろし、お尻をじわじわずらしながら降りました。
湿った森の土へパンプスがやわらかく足跡になります。
「ヒヒヒ。みりさちゃん、ドライブ快適だった?」
ランスがトラックの後方に立っていました。
「あなた、その幼い手足でどうやって運転するの?」
「ヒフフ。運転用の義手と義足があるから、余裕」
「免許はあるの?」
「フフヒ。この年齢で免許なんかあるわけない。みりさちゃんはバカ」
ランスは細く刺さっている光線へ顔を当てながら笑っています。
「フフフ。赤ちゃんは男の子?」
「幸せくん? そう。あなたと気が合うかもね。わたしを“バカ”と言うあたりはそっくり」
「ヒヒヒ。幸せくん。ヘンな名前」
「ずっと前に占い師さんが教えてくれた最高の画数なのよ。あなたの名前も画数診断してあげようか。本名は?」
「ハハヒ。みりさちゃんはバカ。もう忘れている。ボクはランス」
「ランスはわかっているけど、あなたは日本人でしょう。本名は?」
「ハヒヒ。ボク、地球人」
ランスは水鉄砲を抜くと、わたしのくちびるを撃ちました。
「イタズラはやめなさい」
「フフ。のどが渇いている。飲んだ方がいい。こっち」
走り出したランスの後ろをついていくと、笹林の間に同じ種類のトラックがもう1台放置されていました。
トラックのそばに湧き水があり、ランスがコップの水をわたしてくれました。
「ヒヒヒ。幸せくんへ、どうぞ」
「ありがとう」
冷たすぎる水を飲むわたしの視野で、ランスがちがう種類の水鉄砲を空へ向かってかまえました。
「フフ。あんな鳩は山にいない」
水鉄砲のはずの銃口から、矢のような残像が飛び出し、水の湧き口へ鳩が落ちました。出血が新鮮な水を汚し、濡れた羽毛が下流へ沈んでいきます。
田村様の声が放置トラックの中から聞こえてきました。
「ランス野郎。さっさと鳩の目をふさいで、台所へ持ってこい」
「フフ。もう目はふさいである」
ランスは小さな目を貫通している矢をつかみ、鳩を持ち上げました。
「ハハヒ。台所に行く。鳩肉を幸せくんへ焼く」
ランスが放置トラックの箱へ入っていきます。