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再会・story32

 産科まで予定どおりに時間が流れました。

 受付を終え、待合室にすわると、もう晩期なのかお腹の大きな妊婦さんが3人でおしゃべりをしており、声の合間にわたしを見ます。まだお腹の出ていないわたしは妊娠初期のお母さんか、中絶する無計画娘か、どちらとも想像されるでしょう。明るい気配を背負っているはずはないので、後者と思われているにちがいありません。

 正解ですからしかたないのですが、“中絶する母”というレッテルをむやみに貼られるのは女にとって苦痛です。わたしは胎児への愛情を表現するため、盛んに子宮をなでました。

 いや、見られていなくてもなでたでしょう。現にタクシーの中でもなでました。ずっと幸せくんのことを考え続けています。

 同意書を偽造する時、約束どおり手が全自動で筆跡を作ってくれました。

 しかしもう声は出してくれませんでした。

 わたしも声をかけませんでした。

 幸せくんに対して別れた恋人のようなクオリアが発生します。子どもと別れた経験はありませんし、もちろん子どもがいないわけですが、もしもふつうに我が子と別離したなら、ちがうクオリアが発生するのでしょう。

 幸せくんを産んだ苦しみもなく、育てた労もなく、ただ甘え助けてもらっただけですから、恋人のようなクオリアが残るのも無理はない気がします。

 というわたしの思いは当然幸せくんへ伝わっているはずです。どんな心持ちで母を見ているでしょうか。

 子宮をなでる手が電池切れのように止まりました。

 幸せくんの心を考えると気が滅入ってしまいます。

 ススキノの陰にある小さな個人産院は古く、かなり旧式の赤電話が入口のそばに置かれています。待合室は明るい色へ改装されており、快適な空気が循環しているのですが、ゆえに明るさの間へわずかに残された古さがよけい陰気な色になって目へ飛びこんできます。

 妊婦さんの囲みから三様の笑い声が起きました。明るく快適な笑いです。陰気な色が目に入るのはわたしだけのようです。

 目を閉じると、下着の中で確認した今朝の出血が陰気な赤になってよみがえります。熱帯魚の背びれや、熱くなったドライヤーや、あの人のひかれたシーンがよみがえります。

「だいじょうぶですか?」

 肩をたたかれたので、目を開けると女看護士さんの表情が揺れ笑いしていました。

「だいじょうぶですか?」

「はい」

「名前を呼ばれたの、気づきませんでした?」

「ごめんなさい」

 立ち上がったわたしは、一様に見てくる3人の視線をくぐり抜けるように、診察室へ向かいました。

 灰髪の男性産科医は、出血があったけどすぐに止まったというわたしの説明をうなずきながら聞いてくれました。

「痛みはありますか?」

「だいじょうぶです。でも、先生がお忙しいのはわかりますが、できたらすぐにでも中絶処置してほしいです」

「もっと早く処置するのが理想だったのは事実です。お待たせしたのはこちらの都合ですから、申しわけなく思っております」

 産科医は大きくうなずくように頭を下げました。本当はもっと早い時期に中絶処置するのがベストだったのですが、病院の都合で今週へ延ばされていました。おかけで幸せくんと会話できたのですから、申しわけなく思われる必要はありません。

「気にしてません、先生」

 産科医がまたうなずき始めました。

「出血は心配ですから、今日処置する方向で準備しましょう」

「ありがとうございます」

「今、9週ですね。つわりの症状はどうですか? ちょうど苦しい時期だったでしょう」

「だいじょうぶでした」

「だいじょうぶ? そうですか」

 産科医のうなずきが止まりました。

「とりあえず、診てみましょう。内診着へ変えてください」

「先生。今日は帰れないですよね。今のうちに、仕事を休む、っていう連絡だけしたいのですが」

「帰られますよ。入院の必要はありません。ただし仕事は休むことになります。携帯電話を使うなら玄関でお願いします」

 診察室を出たわたしは3人の視線を跳ねかえし、玄関へ行きました。

 玄関は改装されておらず、スリッパと防犯カメラだけが新しく光っています。

 携帯を出したわたしは店のマネージャーへ電話しました。午前中ですから電話に出ないはずなので、留守電へ一言謝罪しておき、メールで適当な言いわけをしておくつもりでした。

「みりさ」

 不意に声が現れたので、おどろきました。声の現れた場所が耳ではなく、脳の奥であることへ、さらにおどろきました。

「幸せくん」

「声を出すな、バカ。カメラの前だぞ。もう出してしまったからしょうがない、留守電へメッセージを残すふりをしろ」

 まだ留守電へ切り替わる前でしたが、わたしは必死に対応しました。

「ヘンなあだ名で呼んだけど、まじめな話です。今日の出勤、バツです。詳しくはメルします」

 留守電へ切り替わる音を聞きながら電話を切りました。

「みりさ、よくやった。メールするフリをしながら俺の話を聞け」

{どうしたの、急に}

「あの医者はニセモノだ」

{なにを言っているの? 本物の先生よ}

「もちろん本人だが、中身が変わっている」

{中身? なにを言っているの?}

「買収されているんだ。もう本物の医者じゃない。最高権力が相手じゃしかたない、恨むな」

{買収されて、どうなるの?}

 わたしはメールの文面へ、幸せくん幸せくん幸せくん、と連打しながら、声を聞きました。

「“入院の必要はありません。ただし仕事は休むことになります”という言葉は本気だった。しかしその前の“帰られますよ”という言葉で脈拍が暴騰した。“帰られますよ”はウソだ。みりさを帰す気なんかない。医療ミスに見せかけて殺す気だ」

{医療ミス?}

「もうバレているんだ。カメラで厳重に見張られている」

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