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妊婦と人類・story31

 わたしも幸せくんもひどい睡眠不足ですが、眠くはありません。母は服を着ているから眠れないのではなく、赤ちゃんだってきっと、もうすぐ中絶されて死ぬのが怖いから眠れないのではなく、もう少しで永久のお別れになるという数時間、布団の中がどんなに暖かくても眠気など生じるものではないのです。

 かといって会話はしませんでした。なにを話していいのかわからない数時間でした。わたしの手は子宮の上にありましたが、まだ幸せくんは胎動できませんし、胎盤すらつながっていない母子ですから、会話しないかぎり直接のコンタクトはかないません。まるで知らない他人同士のようになんの接触もないのに、感情はすごく濃厚なまま、お別れの時間が過ぎていくのを感じました。

 もしも胎動があったら、中絶などできないでしょう。

 と思ってみたら、ウソになります。

 会話には胎動以上の深みがあるのに、わたしは幸せくんを中絶しようとしています。

 幸せくんの気持ちを考えようとしましたが、何度挑戦しても、脳裏には熱帯魚の背びれしか浮かんできません。赤ちゃんは母の心をすべて読みとってくれるのに、わたしはなにもできないまま、暖かい時間の中へ横たわっています。

 妊娠したのはわたしであり、幸せくんにはなんの落度もないのに。

 避妊すればよかった。あの人は妊娠目的だったわけですが、わたしの心がもっと慎重だったら、いくらでも受精を防げたはずです。

 ちゃんと避妊しておけば、幸せくんを受胎することはなかった。だから幸せくんが死ぬこともなかった。

 中絶ほど残酷なものは地球にないかもしれません。生まれてはいないのに、死を体験しなければならないのです。

 幸せくんが変異脳だから、体験という形になるだけですか?

 ふつうの赤ちゃんなら脳が未発達だから、中絶したって、痛くもかゆくもないだろうと思いますか?

 もしも宇宙人が地球へやってきて“この惑星には母星の中でしか暮らせない人間というものがいるな。まるで子宮から出られない胎児みたいだな。生き物を殺すのは良くないが、中絶ならいいか”と言って人間を皆殺しにしても、いいのですか? 攻撃されてもかまわないのですか?

 ズキン、と子宮で衝撃が鳴りました。

 初めての動きにおどろいたわたしは「幸せくん、動いた? 胎動? 胎動したの?」と思わず声をはしゃがせてしまいました。

「バカ。声を出すな。カメラは乾電池式だが、高性能だ」

{ごめん}

「痛くないか?」

{全然。どうしたの?}

「出血させた。あと少ししたら気づけ。布団から出て、出血を確認して、産科へ行く用意をしろ」

{幸せくんは痛くないの?}

「俺から出血させたわけじゃない。痛神経を麻痺させているが、それほど丁寧にはやっていないから、みりさは時々痛むかもしれないけど、大した傷にはしていないから心配ない」

{あと少し?}

「もう8時半を過ぎている」

{書類、どうしよう。同意書}

「破り捨てたな。ゴミ箱にある」

{破いたやつを持っていったら、怒られるかな?}

「破いた書類をゴミ箱から拾っているのがカメラに映ると、不自然に思われる。書類をなくしたフリをしよう」

{それじゃあ手術を受けられない。名案だね}

「偽名の印鑑は用意したはずだろ。ここじゃダメだから、コンビニで便箋を買い、タクシーの中で同意書を書け。形式は別でも通用する」

{筆跡を変えて書くのに苦労したのよ。何十回も練習してようやく上手に書けたのに、もったいないことをした。タクシーの中で別筆跡を書くのは無理}

「上手に書けたのは、見かねた俺がこっそり手助けしたからだ。タクシーの中でも俺が全自動で書く。もう布団から出ろ。出たら、後は一切話しかけるなよ。自然に行動しろ。あと数時間、ボロを出すな」

{泣きたくなった時はどうしたらいい?}

「カメラの乾電池、週末には切れる。それまでガマンしろ」

{もう話してくれないの?}

「必要ないだろう。みりさが自分で行動したほうが自然体で怪しまれない。ただ中絶へ行くだけだ。俺の指示は必要ない」

{ただ中絶、って}

「みりさ。いつかふつうの子どもを妊娠しろよ。ノビノビ育てろ。なんでもワガママを聞いてやれ。名前はもっと慎重に決めろ」

{幸せくん}

「さようなら」

 もしも宇宙人が地球へ攻めこんできた時、人類は幸せくんのような、いさぎよい最期を遂げられるでしょうか。

 わたしは目をぬぐい、くちびるを結び、布団から出ました。

 体を動かすと、性器の周囲で小さな血の気配が感じられました。

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