妊婦と小魚・story30
{“個体数には縁起の悪い数字を使っちゃいけない”と咲藤さんに言われた。13匹なんて飼うはずがない。金魚7匹、シュードムギル14匹でまちがいない}
「まちがいないのはわかる。1匹は金魚の水槽にいるよ」
{そんな。水温が合わな}
途中で声が詰まりました。華やかな色の背びれや尾びれが散り々々になって、金魚の水槽に浮かんでいます。
{金魚に食べられたの? どういうこと?}
「侵入者が1匹だけ移動したんだ。濡れた手をふいたらしい跡がカーテンにある。目には見えないだろうが」
{どうして、そんな}
「みりさ。ショックなのはわかるが、俺の言うことを落ちついて聞け。みりさの動きはカメラで見られている。魚が減っていることへ気づいている姿をリアルタイムで観察されている」
{やっぱりカメラもあるの?}
「今度こそ本物の侵入者だ。だけどみりさが俺と会話していないのなら、侵入者など想定外だから、魚の移動は不意に訪れた不可解な現象だ。どういうリアクションになると思う?」
{水槽の前にすわりこむ}
体が全自動ですわりました。
「よく数え直すフリをしようか。死骸を確認していても、やるだろう」
眼球が全自動でゆっくり魚を追います。
{侵入者はわたしが幸せくんと会話しているかどうかを確認するために、こんなことをしたの?}
「水槽にはほこりよけのフタがあるから、魚が跳ねて移動したりはしない。誰かが侵入したのはまちがいないのに、みりさが冷静だった場合は殺害対象になる」
{幸せくんが冷静でよかった。わたしは冷静じゃないフリをすればいいのね}
「とりあえずすわっていよう。みりさが魚の数を把握していると知っている友だちはいるか?」
{何人かへ話したことがある}
「数が減った場合にすぐ気づくほど熱中していることも知られているか?」
{たとえ大人数のグループでもつき合いが長ければ誰か1人欠けると違和感があるでしょう。同じ感じで、1匹でも水草の陰へ隠れてしまうとすぐに気づく。そう話したことはある}
「誰に?」
名前を思い浮かべると、ため息が出ました。
「宮美か」
幸せくんが読みとってくれます。
「よし。宮美へメールしよう。“不思議な現象が起きたから怖い。助けて”とメールするんだ」
{もう寝ているよ。眠たそうなのは本当だった}
「本当に助けてほしいわけじゃない。カメラへのポーズだ」
抵抗できない熱帯魚のように体が全自動で移動し、バッグの携帯を開きました。
{文章は? 怪奇現象、だっけ?}
「俺が打ってやる」
わたしが打つより速く、文面はできました。
{わたしなら、絵文字をつける}
「そういう状況じゃない。冷静になるな。恐怖にふるえろ。ふるえながらベッドへ潜って布団をかぶれ」
{服のまま? せめて化粧を落として、シャワーを浴びて、パジャマを着る}
「せめてのわりに注文が多いぞ。幽霊におびえる女がそんな丁寧なことをするもんか」
{幽霊はいない。咲藤さんが言っていた}
「幽霊より監視カメラの方がこわい。頼むから、ふるえながらベッドへ行くことに同意してくれ」
{わかった。ふるえるよ}
「自分でふるえるとぎごちなくなるだろう。ふるえは俺がやるから、ベッドへは自分で歩いてくれ」
わたしは1度だけ水槽をふりかえりました。
{せめてエサをあげたい}
「いいかげんにしろ。みりさが死んだらあの魚たちも飢え死にするんだ。今は俺の言うことを聞け」
寝室は出かけた時と同じ気配に静まっています。
{ここにもカメラがあるの?}
「ある。乾電池式のやつだから、長い期間見るつもりはないらしい」
{どこ?}
「教えない方がいいな。態度に出ると困る。早く布団をかぶれ。そうすれば見られない」
服のままベッドへ入るのは死ぬほどイヤでしたが、どこかの男たちにカメラで見られているのは死ぬよりイヤです。布団の中はまっ暗に暖かく、急に体や心の力が抜けて落ちつきました。
{ホッとする。子宮の中もこんな感じ?}
「子宮の中は羊水だらけだ。熱帯魚の水槽のようだよ」
{これからどうしたらいいの? 服のままは眠れない}
「みりさ。聞いてくれ。そして理解してくれ」
{どうしたの? 声がおっさんみたいになったけど}
「今夜の出勤は休めるか?」
{状況によるけど}
「なら、これ以上の状況はない。午前9時になったら産科へ行き“中絶手術をすぐに受けたい”と言え」
{それって他人から見たら不自然じゃない?}
「もう少ししたら子宮から出血させる。みりさは怪奇現象直後の出血でパニックになり、なにもかもを胎児のせいにする。そして中絶を急ぐ」
{いやよ}
わたしは子宮を強くたたきました。
{中絶はしない。わたしは幸せくんを産んで、どこかで脳の手術を受けさせるの。貯金ならある}
「誰がそんな手術を執刀できる。金がいくらあっても無理だ。なにより出産が無理だ。産もうとしてもただ殺されるだけだよ。みりさが死ねば俺も死ぬ。だったらみりさだけでも助かった方がいい」
{いやよ。カメラつきの部屋を捨てて、遠くへ逃げよう。貯金ならある}
「市内を出る前にひき殺される。少しでも怪しい行動をとれば終わりだ」
わたしは手をにぎりしめ、子宮をつかみました。実際はつかめないのですが、指の中でしっかりと幸せくんをつかんだ気持ちになりました。
{幸せくんに会いたい}
「俺は会いたくないよ」
{ウソ。幸せくんもわたしに会いたがっている。わたしには幸せくんの心が読める。クオリアも光子情報も全部読める}
「ひどいウソだ。会いたくても会えないんだ。もうあきらめろ。もう黙れ」
幸せくんの声から冷静さが消えました。布団の中が暑くなり、にぎりしめている手の中で汗が煮えてきました。
「みりさ。2つのことを理解しろ。まず1つ目。出産は不可能だ。日本中どこへ行ってもみりさが隠れる場所はないし、海外へは逃げられない。金曜日の中絶手術を受けなければ胎児と会話している可能性を考慮され、すぐに殺される。胎児がなに1つ話さなければ金曜日に中絶するはずだからな。だが実際に会話している以上、カメラの前であと3日もごまかしきれないだろう。ボロを出す前に中絶してしまうのがベストだ。今日のうちに中絶するんだ。理解しろ」
目をぎゅっとつぶっているのに、涙はあふれてしまいます。粒子のレベルならまぶたはすき間だらけ。いくらでも流れる涙は子宮から羊水があふれてきたかのように温かく、幸せくんがすぐそばにいるような気がします。
{幸せくん。カメラへ向かって大げさに謝ろう。貯金をあげて許してもらう。許してくれないなら逃げよう。千歳までタクシー、車を盗んで太平洋へ逃げよう。太平洋へ金魚たちを逃がしてあげよう。布団の中は暑いね。煙草を吸おうか。羊水を冷やさないと幸せくんが煮えちゃうよ。死んじゃうよ。幸せくんが死んじゃうよ。追いかけてくる人たちは力があるからね。わたしたちは羊水の中の小魚みたい。簡単に移動させられて殺されちゃう。金魚が襲ってくるから逃げよう。出発は午前9時。持ち物はドライヤーと魚のエサと折れたハイヒール。母を信じなさい}
子宮が熱くなってきました。布団の中の暑さ、興奮するわたし自身の熱さに関係なく、子宮が熱くなってきました。幸せくんが熱くなりました。声がぶるぶる、ふるえました。
「みりさ。もう1つ理解してくれ。俺はわずかな時間でもみりさと一緒に過ごせてよかったよ。みりさの子どもになれてよかったよ。他の母親じゃイヤだった。みりさを信じているよ」
幸せくんを想像しようとしました。何度も想像しようとしました。
小魚のちぎれた背びれしか浮かばない自分の脳をにくみました。そのすべてが幸せくんへ伝わってしまうことをにくみました。
{ごめんね。母はダメだった}