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動き回る地球・story29

 タクシーへ乗りました。行き先を告げても、うなずくだけで返事をしない運転手が尾行者に思えます。

「心配するな。長時間勤務の終盤で疲れがピークへ達しているだけだ」

{幸せくんなんか当てにならない}

 後ろをふりかえると、軽自動車のヘッドライトがこちらから目を離さず走っています。

「あたりまえだろ。ふつうに後ろを走っているだけでそうなる。なんでもかんでも怪しいと思うな」

{怪しいと思ったから女の子たちが来た時に聞いたでしょう。“尾行じゃないか?”って}

「怪しいと思ったから聞いたわけじゃないだろう。若い素肌をねたましく思って聞いただけじゃないか。なんでも見通せる俺へウソは通用しない」

{なんでも見通せるなら、すぐに尾行だと気づきなさいよ。宮美の時もそうだけど、女の子の素肌が気になるなんて、どんな赤ちゃんなの}

「しかたない。そういうクオリアが発生した。発生するクオリアを止められる者はいない」

{偉そうに言って、いやらしいおっさんと変わりがない}

「おっさんはないだろう。赤ちゃんへ失礼だ」

{赤ちゃんなら、赤ちゃんらしくしなさい。母親に対する口のきき方から直しなさい}

「もっとノビノビ育てろよ」

 信号で停止した車内を通行人がのぞきこんできます。

「空車じゃないかと確認しただけだ。なんでも尾行に思うな」

{尾行、今はどうなっているの?}

「直接はついてきていない。だけど必ずターゲットにされている。油断するな」

{どうすればいいの?}

「俺と話す時は絶対に声を出すな」

{部屋までガマンする}

「帰ってからもだ。監視カメラと盗聴器に囲まれていると思え。マンションへの侵入なんて、敵には簡単なことだ」

{やめてよ。お風呂も入られない}

「18ならまずかったな」

 タクシーが走り出しました。もうマンションが見えてくるころです。外郭を確認できるくらいまで、空が明けてきています。

 オートロックの鍵を回しながら、幸せくんへ聞きました。

{部屋へ侵入されているなんて冗談だよね}

「たぶんな」

 エレベーターの防犯カメラを見ながら聞きました。

{監視カメラや盗聴器なんて冗談だよね}

「たぶんな」

{たぶんな、ってなによ。気がない返事ばかりして}

「たぶん、侵入されている。たぶん、設置されている」

 屋外で尾行されているだけでなく、部屋の中まで監視されていることを想像すると緊張感が頭痛のように広がり、10階の廊下を歩きながら、自分のドアがどこなのかわからなくなってしまいました。部屋番号を確認して立ち止まりましたが、毎日見ているはずのドアを初めて見るような気持ちになります。こんな色だっただろうか、こんな形だっただろうか、ぼんやりする頭でバッグを開けましたが、玄関の鍵をとり出せなくなりました。

{ダメ。限界}

「しっかりしろ。ふだんどおりに動け。不自然な挙動はするな」

{まさか、部屋の中に誰かが隠れていないよね}

「室内には誰もいないのが、わかる。だけどカメラがある可能性は高い。しっかりするんだ」

{無理。もう限界超えた。助けて}

 手が全自動で鍵をにぎります。

「みりさ。監視カメラが隠してあったとしても、逃げ出すな。おびえるな。ふつうに暮らしていればカメラへ気づかないはずなんだから、ふつうに暮らせ。少しでもおかしな素振りがあれば、殺される」

 鍵が回り、ドアがふつうに開きます。

{どうしたらいいの? 一生カメラつきの生活?}

「大げさだな。中絶してしまえば元の生活へ戻る。今週の金曜日の予定だろ。あと3日だ」

 手が電灯のスイッチを押し、足が居間へ進み、わたしの体はソファへすわりました。

{誰か入ったみたい? カメラある?}

「あわてるな。今確認している」

{部屋の中はなにも動いていないみたいだけど。カメラってどこへつけるの?}

「探している」

{早く、見つけてよ。記憶オタクなんだから、様子が変わっていたら、すぐわかるはずでしょう。光子情報とかなら、ちょっと変わっていても気づくはずでしょう}

「変わっているよ。時計の針の位置が変わっている。日の入り方が変わっているせいで熱エネルギーの流れも変わっている。換気口から空気が出入りしているので、成分が変動している。各コンセントへの電圧も夜中のせいで上がっている。光子は常に光速で動き回っているんだ。変わらないものを探す方が大変だ。時間をくれ」

 わたしは窓の大きさを表すカーテン越しの薄明るさを見ました。地球は常に激動しているのに、なにも感じない人間の体は生きているとすら言えないほど、ぼんやりすわりこんでいます。

{幸せくん}

「今度はなんだ。黙っていられないのか」

{幸せくんの繊細な脳で生きていくのは大変だろうね}

「大変だよ。自分で自分に耐え続ける自信はない。変異脳は失敗作なんだ」

{わたし決めたよ}

「やめろ。そんなことは無理だ」

{無理じゃない。必ず達成できる。幸せくんを産み、脳を手術してもらって、ふつうの男の子になってもらうの}

「中絶手術にしろよ。週末にはふつうの女へ戻れる」

{必ずやってみせる。母を信じなさい}

 わたしは自分の力で立ち上がりました。

{カメラがあってもなくても、ふつうの生活をする。まずはカーテンを開けるのが恒例よ}

 電灯を消し、カーテンを開けました。

{次は魚たちの朝ごはん}

 水槽へ近づき、エサの袋を持ち上げたところで、急に握力が消えました。エサの袋が床へ落ち、わたしの心も後を追うようにどっと沈みました。

{幸せくん。魚も動いている}

「魚が動くのはあたりまえだろ。今はみりさの脳の相手をしているヒマは」

 わたしの脳内を察したらしく、幸せくんの声が途中で消えました。

{熱帯魚は14匹いたのに。13匹しかいない}

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