靴が歩く速度・story25
マンションの前は中央分離帯のある全部で四車線の道路です。車も歩く人も多いですが、夕方の忙しい時間帯にぼんやりしている人はいないので、街頭マネキンのように身動きしないわたしの姿は尾行している者へはもちろん、無関係の人目にだって印象づいてしまうほど目立ちます。そう考えるとますます筋肉が彫刻化します。
肺や心臓も止まるのではないかと心配になった時、動かないはずの手が勝手に自分のバッグへ入り、盗むような仕草で携帯を出しました。手はわたしの意志と関係なく折りたたみタイプの携帯を開き、耳に当てます。
「みりさ。くちびるを動かせ。くちびるは感情がこもらないと動きが硬くなるから自分で動かせ。意味のある言葉を言えよ。読唇術の持ち主に尾行されていたらバレてしまう」
「意味、って」
「俺としゃべるな。携帯へ出ていきなり“意味”というやつがいるもんか」
「助けて」
「もう黙れ」
足が動き出しました。携帯を使いながら北へ向かって歩く女の姿です。
「幸せくんが歩かせているの?」
「声を出すな」
{助けて}
「心配するな。相手はあまり優秀なヤツではないようだ。みりさのボケぶりに気づいていない目で、ようやく歩き出した。もう携帯を閉じよう。深呼吸させてやるから、携帯くらい自分でかたづけろ」
わたしの肺が大きくふくらみ、騒音や排気ガスをたくさん吸います。
筋肉の緊張はすぐ解けませんし、頭もぼんやりしていますが、心がやわらぎました。感情から順に復活します。
{ちょっと幸せくん。ボケとはなによ}
「なにが“母を信じなさい”だ。俺は睡眠不足なんだ。胎児にとって睡眠は大切なものだぞ。他の赤ちゃんは羊水に揺られてのんびり眠りながら移動するのに、俺は母親のめんどうを見なきゃならない。尾行がいるのは想定内のはずだ。いちいち心拍数を変えるな」
{幸せくんが他の赤ちゃんとちがうからでしょう。わたしだって幸せくんのせいで睡眠不足なの。一方的に責めないで}
「なにが睡眠不足だ。寝がえりと寝言ばかりで、起きているのと変わらないくらいにクセの悪い睡眠だろうが。あれでよくぐっすり眠った気分になれるよな。こっちは寝がえり喰らって子宮の壁へ頭をぶつけないか心配でまともに寝られないんだぞ」
{もうちょっとゆっくり歩かせてよ。ヒールをはいているのがわかっているでしょう。脳と口ばっかり達者で、気がきかないからイライラする}
「うるさい。自分で歩け」
急に自動歩行を止められたので、わたしは前へ転びそうになりました。たまたますぐ横に立っていた消火栓へ手をついて息を整えます。
{乱暴はやめてよ。ヒールが折れたらどうするの}
「ウォーキングシューズへリサイクルしろ」
{腹が立つ赤ちゃんだね。いっそのこと中絶しちゃおうか}
言ったとたんに心拍数が冷たくなるのを自覚しました。背中の中心が寒くなり、心臓の重量が増えるのをはっきり感じます。消火栓の鉄帽へ手汗が流れました。
「みりさ、立ち止まるな。歩け。いちいち心拍数を変えるな」
よろよろ歩き出しながら、わが子への言葉を慎重に選びました。
{幸せくん}
「わかった。いろいろな謝罪文がみりさの頭の中でごちゃごちゃしている。俺相手に言葉を整理することはない。もういいよ」
{ごめん。思ってはいないことなの。信じて}
「思っていないことは、俺が一番知っている。それより歩調に気をつけろ。さっきの急ブレーキでヒールのかかとが弱くなっている。無理すると本当に折れるぞ」
{靴を買うよ}
書店へ行くのはやめにして、靴店へ寄りました。脱いだヒールは幸せくんの言うとおり、かかとのつけ根がぐらついています。子宮に無理がかからないよう、ゆっくりかがみながら試履して、かかとのないパンプスを選び、靴ずれ止めのバンドと一緒に買いました。
幸せくんが偉そうに言います。
「追われている者の靴だ。ようやく自覚が出てきたな」
{妊婦の自覚よ}
わたしは地に着いたかかとで床を踏みしめながら、心拍数を落ちつけました。
店員はレジの引出しがぶつかるくらいに太ったお腹を突き出している、靴がはきにくそうな体型の人でした。
「こちらのヒールは処分しておきますか?」
「持って帰ります。今日は忘れたくない心がたくさんあったので、時々思い出すために」
靴店を出ると、店頭の靴を品定めしていた男がわたしのかかとへ視線を送ってきました。
{わたしに感づかれるくらいじゃ、たしかに優秀じゃないね}
偉そうに思ったところへ、幸せくんが言いました。
「少しはみりさへ安心してきたよ。本当に眠いから少し寝る。緊張状態でいるから、なにかあったらいつでも話しかけろ」
ヒールの時より慎重に歩きながら出勤しました。