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中絶志願と出産表明・story21

「幸せくんのほかにも変異脳を持った胎児が妊娠されているということ?」

「あの人はすれちがった女性の排卵日がわかるからな。ただそれだけの理由で女性を選び、次々と受精させ、母親の脳へ伝言を残したと思う」

「ああ、そうですか」

 わたしはトイレを出ました。午後4時を少し過ぎたところです。バスルームへ行き、給湯の蛇口を開いてから、脱衣所の鏡台へすわり、鏡で顔を確認しました。

「どうせ大した顔じゃないですよ。排卵日じゃなかったら、声もかけてもらえませんでした」

「どうしたんだ、いったい」

「お酒を飲んでも、幸せくんは平気?」

「別にかまわない。まだ胎盤ができていないから、みりさのアルコールは俺へ届かない」

「じゃあ、どうして煙草をイヤがるの?」

「羊水の温度が低下する」

 冷蔵庫へ行き、缶ビールを出しました。ノドをびりびりさせながら炭酸を飲みこみ、天井へ向かって息を噴きます。

「すっきりする。侵入者のことを瞬間だけ忘れられた」

「忘れるな。真剣に考えろ。出勤する、ってどういうつもりだ」

「いちいち説明しなくても、勝手に伝わってくれるからラクね。今日は月曜日。仕事第一のつまらない女ですから。大した顔じゃないですから」

「マンションを出るのは危険だ」

「ここの方が危険よ。すでに誰か侵入している。大勢の中ですわっている方がいい」

「聞いてくれ、みりさ」

「聞こえるよ。頭の中でガンガン響いて、耳をふさいでも意味がないし、どこかへ逃げようもない」

「みりさは本当に命を狙われている。相手は悪い連中じゃなく、公的で権力的だ。つまり悪い連中よりずっと大敵だ。警察も弁護士もお人好しも、誰一人としてみりさを助けてくれない。かばってくれないし、見逃してもくれない。国中が敵だらけだと思え」

「じゃあ、もう生き延びるのは無理ね。そんな状況でどうしろっていうの?」

「俺を中絶しろ。明日中絶してもらえ」

「自殺願望があるわけ? 声色も変えずによくそんなことを言えるよね。中絶すると幸せくんは死んじゃうんだよ」

 一瞬だけ、会話にすき間ができました。水槽のエアポンプの音がほんの一瞬聞こえました。

「明日中絶して、後はふだんどおりに暮らせ。誰かになにかを聞かれても、俺の声なんか1度も聞いたことがない、と返事しろ。胎児が言葉を使うなんてバカバカしい、と言うんだ」

「バカバカしいは今でも言える。だけど声を聞いたことがないとは言えない。幸せくんの声はもうわたしの脳に刻まれてしまった」

「忘れるんだ。変異脳に関する知識を持っていると知られたら殺される。中絶しても意味がない。俺はみりさと会話しないつもりだった。みりさが中絶する日をただ待っていた。あのまま時間が過ぎていたら、今週中に中絶されたはずだった。だけどみりさがあの人へ近づこうとしたので、しかたなく大声を出してしまった。あの人へ近づけばみりさの身元を調べられてしまう。そして妊娠していることが知られてしまう。いや、どっちにしろもう調べられている。あの人が誰かを受胎させた可能性のある期間に妊娠し、市内の産科へ行った者はすべてリストアップされているはずだ。権力圧へ逆らう病院はないから、1人残らず名前を提供しただろう。特にシングルマザーは特注マークをつけられる。そして張りこまれる。なにも気づかない顔で中絶する姿を見せてやれば、特注マークが外れる。だけど出産しようとしたり、街から逃げようとしたりすれば、殺される。つまり俺を殺してみりさだけ生き延びるか、母子ともに死ぬか、二者択一だ。決断に時間も理由もいらないだろう。俺を殺せ。俺を忘れるんだ」

 幸せくんの声が静まりました。エアポンプの音へ、浴槽から湯のあふれ狂う音が重なっています。

 わたしはビールの残りを飲みこみ、ゴミ箱へ狙って空き缶を投げました。空き缶はビールの雫を垂らしながら思わぬ方に飛び、寝室へ消えていきました。

「幸せくんは、忘れろ、と言うけど、わたしの脳は必要な記憶を忘れないようにできているわけでしょう」

「不要な記憶だ」

「必要な記憶よ。絶対に忘れない」

 バスルームへ向かいながら、足のふるえを足で踏みつけました。

「幸せくんを産む。そして守ってあげる。わたしに考えがある。母を信じなさい」

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