泡吹く水・story18
「みりさは誰からどうして命を狙われる可能性があるのか、わかるかい?」
「わからない。のどが渇いた」
わたしは冷蔵庫から缶サイダーをとり出し、ソファへ戻りました。
「みりさにとっての“あの人”つまり俺の父親は変異脳の持ち主だった」
ゆっくりソファへすわりながら、女の脳であの人を思い出します。幸せくんはわたしの脳へ合わせるように、言葉を続けます。
「外見上はふつうの脳に見えたと思う。だけど頭蓋骨の中は変異していた」
「病気だったの?」
「ちがうよ。変異脳は意図的に作られたものだ。あの人は国家レベルの極秘研究で生産された脳改造人間だよ」
物々しい単語が急に脳へ刺さってきたので、わたしは頭蓋骨をひねりながら、子宮へ缶サイダーを押しつけました。
「脳改造? 幸せくん、なにを言っているの。そんなバカな話、聞いたことがない」
「極秘なんだから、聞こえてくるはずがない。バカバカしい話に聞こえるかもしれないが、実話なんだ。生体による脳実験という非人間的行為が実際に行われていた。あの人と同じ実験棟で変異脳へ改造された人は男女計5名いた」
侵入者が“炭酸入りの缶をふるイタズラをした”という可能性を考えてしまったわたしは慎重に缶を開けます。いつもと同じ爽やかな音が指先へかかりました。
幸せくんの口調には爽やかさがありません。
「みりさの“あの人”は5名のうちの生体Bだった。5名は金に困り自殺するつもりで樹海へ入った者ばかり。研究者たちは不遇な状況へヤケクソになっている人や絶望している人を樹海の入口で待ち伏せ「どうせ死ぬ気なら、実験体になる方がいい」と説得し、衣食住を保証する代わり、どこにあるのかわからない研究所の窓がない部屋から1歩も出られない生活と、強制的に手術台へ寝かせられ開頭される恐怖を要求した。実験は十数年前から始められていたみたいだ。紆余曲折しながら数十の犠牲を積み重ね、ついに5名の変異脳人間へ到達した。だけど実験は成功しすぎた。結局5名は殺処分されることになった」
「成功、しすぎ、た、って、なに? どうして、成功し、たのに、殺、すの?」
ゲップの合間から出る単語が散らかりますが、幸せくんはわたしの思考を聞いているので、気にせず話し続けます。
「人間という生物は絶えず洞察力を使いながら生きる。話す相手の表情や仕草、もっと細かく言えば、目の動き、頬肉の動き、くちびるの傾き、指の角度などを潜在意識で、つまり無意識のうちに分析し、相手の感情や真意をなるべく多く察しようとする。変異脳の持ち主はこの洞察力が異常に発達しており、相手の表情や仕草のわずかな変化兆候を光子レベルで解析し、相手の本心を完全に見抜いてしまう。光子情報を細かく知り得る変異脳の持ち主は、ウソをつかれても相手のわずかな血圧変化を読みとり、見抜いてしまうんだ。なおかつ記憶力に秀でており、情報の処理と解析能力が抜けているから、脳と呼ぶには恐れ多いほど優秀な人間となる」
「優秀だと、殺すわけ? もっと、実験すればいいでしょう」
「優秀になりすぎた彼らは実験する側の研究者たちより、頭が切れるようになった。しかも脳の話だ。脳は学習効果による経験値増によって、性能がぐんぐん上昇する性質を持つ。研究者たちは自分より優秀な実験体がさらに性能を増し、いずれ謀反的行為に出る可能性を恐れた。とりあえず研究データを残せたのだから、実験は無駄にならない。データを利用して、次は謀反を起こす可能性の少ない子どもの脳ででも再実験したらいい。5名をこれ以上生存させておくのは危険だ。だから殺処分が決定された。だが処分はすぐに成功しなかった。最初は食事へ毒を盛ったが、わずかな臭いを察知されてしまった。しかたなく研究者たちは毒液を満たした注射器を持って実験体の睡眠時間に枕元へ侵入しようとしたが、緊張状態で眠ることの可能な変異脳の持ち主はわずかな物音でも察知できるので近づけなかった。こうなると最終手段しかない。極秘の研究所には銃を持った警備員たちが24時間巡回している。警備責任者は5名の警備員を5体の実験体が暮らす各部屋へ向かわせた」
残っていたサイダーをくちびるへ染みらせました。少しだけ弱くなっている炭酸の泡がなにも塗っていないくちびるの肌でベタつきます。幸せくんの声が耳の奥で熱を帯びます。
「もちろん変異脳の持ち主は近づいてくる警備員も、手ににぎられている銃の気配も事前に察知するが、察知したところで部屋からは出られないし、銃弾をかわせるわけでもない。銃が相手じゃ勝ち目はゼロ。変異脳の優れた解析能力は自分たちの絶望をすぐに計算した。しかしあの人は計算をやり直した。水の入ったコップを割り、テレビの裏のコンセントを外し、電線をむき出しにして待機し、警備員が扉を開けた瞬間にプラスとマイナスを床の水へショートさせてブレーカーを作動させ、室内の照明を落とした。警備員は一瞬だけ目がきかなくなったが、変異脳の持ち主は目が見えなくてもどこになにがあるかわかる。警備員へ襲いかかり、銃を奪い、コップの破片で警備員の首を切り、廊下へ逃げ出した。成り行きを見届けるために廊下で手を後ろに組んだまま立ちつくしていた警備責任者を射殺してからは、走り抜くだけ。廊下の空気の流れを感じとり、外気の成分が濃くなる方向へ走っていくと、久しぶりに太陽の光が見えた。建物の外へ出ると、一面が冬だった。一面が山景色だった。裸足で標高を下がりながら、雪の冷たさにふるえ、雪の冷たさに慣れ、雪の冷たさで凍傷を負ったころ、牧場の端へ到達した。牧場経営者の留守宅へ侵入し、免許証と現金と靴下と長靴を盗んでからさらに下った。免許証の住所から北海道日高山脈の西麓にいることを知った。国道まで下りたところでバス亭を見つけたので、ようやく一息ついた。国道の向こうに線路があり、その向こうに海があった。冬の太平洋は波が荒く、冷たい泡が飛んでいる様子を光子情報で確認した」
にぎりしめている缶の中でぬるくなってしまった炭酸飲料を飲み干したわたしは軽いゲップを飲みこみました。