暗闇の子ども・story14
幸せくんが説明してくれた、変異脳を持つ胎児の大まかな構造です。
少しめんどうな話ですので、抜粋して書き残します。
音が聞こえる、光や色が見える、栄養を摂る、熱いと感じる、などといった、人間が行う「ありとあらゆる他との接触」を電磁相互作用というそうです。ありとあらゆる、と書きましたが、「重力によって地球に引っぱられる」といった重力の相互作用だけは別だそうです。
人間に感じられる他の相互作用はすべて電磁相互作用であり、光子という素粒子が連絡役になります。
「赤い色」が見えるのは、そこに赤い色があるからではなく、光子が「赤い色があるよ」という情報を人間の目へ運んでくれるからです。
潜在意識は光子によって運ばれた情報を脳の中で処理し、ニューロンと呼ばれる神経細胞を発火させ「赤い色というクオリア」を演出し、顕在意識へ伝えます。
クオリアとは質感と訳されるもので、「赤い色の感じ」、「バラの香りの感じ」、「A君の家の感じ」、というように、他の言葉へ置き換えられない独特の質感を指します。赤い色とはどんな色か? と質問されても答えようがないですよね。赤は赤でしかないですからね。クオリアは人間の最終感覚であり、顕在意識はこのクオリアによってのみ情報を得ることができます。
クオリアには数えきれないほどの種類がありますが、それらはニューロンの発火パターンによってちがいが出るそうです。赤い色を感知した時と、青い色を感知した時とで、潜在意識はそれぞれちがうパターンのニューロン発火を行い、顕在意識はこのパターンのちがいによって、色のちがいを知り、対応策を考えます。
ただし潜在意識は「熱い鍋」をさわった時などには、「熱い」というクオリアが発生するようニューロンを発火させる一方で、手を引っこめるという反射作用を全自動で実行します。潜在意識は人間の脳の大部分を占めており、呼吸や鼓動、栄養吸収と毒物排泄、怪我をした部分の再生などを顕在意識の意志がなくとも全自動で行い、生命維持をしているのです。したがって人間はいわゆる植物人間という状態になっても呼吸や栄養の摂取や代謝の処理などといった条件さえ保証されれば、生きのびることができます。
しかし人間らしさはありません。
優しさをふるまい、意志を持ち、夢へ向かって突き進むといった人間らしい人間独自の行動は5%の顕在意識によって運営されています。この文章も5%のわたしが書いています。
一般的な意味での「わたし」を、この5%へ定義する人が大半でしょう。夢遊病になって移動するのはまちがいなくわたしですが、その行動を支えるのは95%のわたしであり、つまり「わたし」ではありません。5%の「わたし」にはまったく記憶に残らない行動なのです。つまり「わたし」の行動ではないのです。わずか5%の「わたし」こそが「わたし」なのですから。
5%のわたしがなにかを考えた時にもニューロンが発火し、考えごとに対するクオリアが発生します。顕在意識はクオリアによってすべてを支えられており、感覚も記憶も認知も、クオリアでしかできません。
幸せくんはわたしが外部から感知するすべての光子情報を、知ることができるそうです。わたしは光子情報を人間スケールの大ざっぱなクオリアでしか知ることができませんが、幸せくんはもっと細かく知り得るそうです。わたしには直線にしか見えないものでも、幸せくんにはナノレベルの凸凹がどこまでも続く曲線に見えるそうです。ただし幸せくんには小さな目がすでについていますが、まだ視神経はつながっていません。幸せくんの「曲線が見える」は脳の中で「曲線のクオリアが発生する」という意味です。わたしたちがまっ暗なベッドの中でなにかを想像する時に情景が見えるのと似ているのでしょうか。幸せくんの場合、想像ではなく、光子情報を受けてのことですからはっきりした情景が浮かんでいるものと思われます。
わたしが考えごとをした時にも、わたしの脳でニューロンが発火します。発火させるための光子情報が幸せくんへ到達するので、幸せくんの中でニューロンが発火し、わたしの考えが筒抜けになってしまうそうです。
体内のどこを光子情報が通るのかについては、「わからない」と言われました。
「幸せくんとわたしをつなぐ物はへその緒だね。へその緒を通るのかな?」
「へその緒はまだ完成していない」
「じゃあ、どこを通るの?」
「わからない。みりさが感知した光子情報しかわからないから、みりさが知らないことは俺も知らない」
「うそを言っている。わたしが知らないことも、たくさん知っているじゃない」
はっきり言って、幸せくんの豊富な知識が気に入りません。言葉づかいもにくたらしいです。わたしの性器について光子レベルの情報を持っているなんて許せません。
「しかたないだろ。わかってしまうのだから。俺にはみりさと同じ光子情報しかない。しかし解析能力に優れている。絶対音感を持っている人や動体視力に秀でている人と同じ理屈だよ」
「こんなめんどうくさい情報を受けたおぼえはない」
「教科書や新聞で目にしたのに、めんどうくさいからと読み流して小さなクオリアしか発生させなかったから、おぼえていないと感じるだけだ。記憶の底にはちゃんと残っているよ」
「あなたは小さな脳でめんどうくさくないの?」
「俺はまっ暗な水の中で暮らしている。使えるものは脳だけだから、めんどうなんて言っていられない」
わたしは母性というものを初めて感じた気がしました。にくたらしくてしかたない幸せくんがまっ暗な水の中でヒザを抱えている姿を想像すると、にくしみが全部飛んで、ひたすらに、やるせなくなるのです。
「母親は不利だね。わたしの気持ちがわかるでしょう」
「どんな気持ちだ?」
「トボケないで。すべてわかるはずでしょう」
「わからないこともある」
幸せくんの声が初めて弱くなりました。
「俺にはみりさの感情がわからない。感情のクオリアは独特であり、例外なんだ」