人形の目と人間の目・story114
梓の煙から逃げるように、キョーが1歩だけ街灯のスポットライトの中へ動きました。目を見開いている憂の表情がくっきりと浮かび、なんだか不気味です。急に大きな叫び声でもあげそうです。
視線を暗い方へそらしたわたしに子宮から声が昇ってきました。
「みりさ。薬を飲め。飲んでくれ。脳が痛い」
{幸せくん}
「みりさのバカ。脳が痛い。胎盤がつながっているのに、どうしてあんなひどいものを飲むんだ? ニコチンなんて最悪だ」
{事情があったの。わかるでしょう}
「知らない。みりさの記憶を読む気もしない。早く助けてくれ」
わたしはヒロの肩をつつきました。
ヒロはふりむきもせずに言います。
「なんだよ。考えごとの邪魔をするな」
「幸せくんが、薬を飲みたい、って言うから、ニット薬局へ行ってくる」
「自然脳は高性能なんて言ったけど、結局はあいかわらずのバカだな。ニコチン水に効く薬なんかあるもんか。なにを買うつもりだ?」
「薬剤師さんに相談する。ニットの薬剤師さんと仲良しだから」
「時間が経てば治るから、放っておけばいい」
「そんなの、かわいそう」
「気持ちはわかるけど、わたしたちは金がないだろう」
わたしはキョーを見ました。
「お金持っていたら、貸してくれる?」
ヒロがわたしの頭をつつきます。
「やめておけ。治してやるから、恥をさらすな」
目を閉じたヒロがわたしの子宮へ顔を向けました。
幸せくんの声が急上昇してきます。
「治った。ヒロはさすがだ。高性能の細胞修復はさすがだ」
わたしもヒロに向かって声を急騰させます。
「治ったみたい。さすがは高性能だね。やっぱり改造脳が1番だよ」
「母体が若いほど、胎児は高性能になるはずだぞ。どうしてあんたのところは低性能なんだ? わたしや梓より若い母親だろう」
「それは幸せくんの問題だから、わたしは知らない」
わたしのこぶしが全自動で夜空へ急上昇すると、脳天へ急降下してきました。ゲンコツの音が痛神経に刺さります。
「みりさの問題だろう。俺だって高性能を発揮してみたいけど、みりさの“バカ”が遺伝しているせいで、思いどおりにならない」
「幸せくんがバカなせいでしょう。ゲンコツする時しか役に立たない性能なんて、最悪だ」
ヒロがわたしの脳天をつつきます。
「親子ゲンカなら、黙ってでもできるだろう。考えごとをしているんだから、少し静かにしてほしい」
わたしは軽んじられている脳天をさすりながら反論します。
「考えることなんか、ないでしょう。すぐにドクターSのところへ行こう」
「行って、どうする? 順番に手術を受けるのか?」
「当然でしょう。海の中で、他にすることなんかない。ヒロはバカなんじゃない?」
「全員が自然脳になったら、Dドールはどうするつもりだ?」
脳天をさする手が止まってしまいました。たしかに大きな問題がもう1つ残っています。
ヒロは黙ったわたしへ背を向けると、梓を見ました。
「あずさ。どうしたらいいと思う?」
「sub。Dドールの弱点を産みの親のドクターSが知っているかもしれません。まず彼女に会ってみるという考えもいいですね」
「どうして、ドクターSはわたしたちを呼ぶのか。そもそもどれだけの情報を持っているのか。日高の脱走劇はドクターSが海中へ潜伏してからだと思う。わたしたちの存在をどうして知っているのか」
「協力しているのが海外の権力機関なら、情報が入っても不思議ないです」
「でも、それならどうしてさっさと海外へ亡命しないのか。どうもわからない。とりあえず行ってみるべきなのかな。ランスはどう思う?」
ランスは暗い道路へすわりこみ、手さぐりで水鉄砲の手入れをしているようです。
「ヒヒヒ。データがない。ドクターSはまったくの未知数。このままキョーと一緒に行っても、海中設備へたどり着ける確率が30パーセントを下回ることはわかる。ボクたちはダイビング不可。みりさちゃんは川でふらふらしていたくらいだから、海ではおぼれる」
「なによ。気絶していたランスを運んであげたでしょう」
「ハヒヒ。海中ではメイクがなくなる」
わたしはヒロの頬をつつきました。
「考えごとをするなら、わたしのマンションへ行こう。メイクと着替えと現金が必要でしょう」
周囲へ聞こえないくせに、幸せくんが話を折ろうとします。
「みりさのバカ。現金は全部持ち出したじゃないか」
「そうだった。現金はヒロのアパートで調達しよう」
「あんたにこれ以上貸すつもりはないし、わたしだって全財産を持って部屋を出た。キョー、あんたお金を持っているの?」
わたしはヒロの頭を指で弾きました。
「自分だって、キョーから借りる気でしょう。恥さらし」
「黙っていろ。海からススキノまでどうやって来たのか、聞くだけだ」
キョーは街灯の下で、同世代のランスを誘うかのように、わざとらしく足を鳴らしながら小さな踊りを見せています。
ランスは感情のない手つきで、黙々と水鉄砲を整備しています。
「ハヒヒ。潜った場合、海水が中の液体と混ざらないように細工する」
「海へ入られる確率は低いはずだろう」
ヒロがランスを見下ろしながら、キョーへ近づきます。
「ヒヒヒ。確率ゼロは理論上、ありえない。備えておく必要はある」
手を伸ばしたヒロがキョーの踊りへふれました。
「人魚がいた海は札幌に近いよね?」
「こんばんは。近い。石狩港の海」
「じゃあ、キョーが住んでいたのは石狩の海の近くなんだ」
「こんばんは。もうずっと前に家出した。お小遣いを全部持って家出したけど、全部海に落ちた」
「石狩の新港から、ススキノまでは歩ける距離じゃない。どうやって来たの?」
「こんばんは。タクシーの運転手さんが送ってくれた」
「お金はどうした?」
「こんばんは。人魚がくれた」
「お釣りがあるよね」
「こんばんは。お釣りはない。ちょうどだけくれた」
ヒロがスポットライトの中で踊りのようにかかとを鳴らしました。
「さすがは神様と、ほめるべきところなのかな。長距離のタクシー料金はなかなか見抜けないはずだけど」
ヒロはキョーの表情をじっと見ています。
キョーは人形で顔を隠します。スポットライトをまともに浴びるせいで、人形の目が光ります。
{気味が悪い人形だよね。目が嫌い}
「目の材質がふつうの人形じゃない。本物の人間の目に似せている。きっと高価な人形だよ」
幸せくんが光子情報を使った改造脳らしいコメントをします。
{なるほど。なんかカッコいいセリフだね。さすがはわが子だ}
幸せくんの声が上機嫌に光ります。
「でもまぶたがないから、人形はまばたきをできない」
ヒロが人形から目をそらしながら、キョーへ質問を続けます。
「人魚はわたしたちがどうやって海までたどり着くべきか、話していなかった?」
人形を顔から下ろしたキョーの目が街灯を吸いこみます。
「こんばんは。誰かがタクシーの運転手を運転するはず」
「なるほど。罪深い神様と聞いていただけあって、無賃乗車なんか平気みたいだね。ところで、港からススキノまで、料金はいくらだったの?」
ヒロはもう1度キョーの顔を見ましたが、キョーはすぐに人形を持ち上げます。
「こんばんは。不要な記憶は保存されない、って人魚が言った」
「たしかにね。わたしもタクシー料金をいちいちおぼえたりはしないね。チップをいくらもらったかはおぼえるけどね」
ランスが立ち上がりました。
「ヒヒヒ。バネを強くしたから、水中でも矢が速く飛ぶ」
梓のライターが、自分の目に反射します。
「sub。禁煙のタクシーが多いので、今のうちに梓へ吸わせておきます」
ヒロがわたしたちへ背中を向けたまま、歩き出そうとします。
「ということは、梓がタクシーで客の役をしながら、あずさが情報操作してくれるわけだね。備えるための喫煙だ。ランスの備えもいいようだから、わたしも備えを買ってくる。ニットで二日酔いの薬を選んでもらうよ。甘奈に万全の体調になってもらうのが、わたしの備えだ。みんな、ここで待っていて」
歩きだしたヒロの後をわたしは追いかけました。
「盗むなら、いくつでも同じでしょう。わたしも欲しいものがある」
ヒロは目を閉じたまま歩き、返事をしてくれません。
「ねえ。新港へ行くんでしょう? スキューバダイビングなんかしたことないけど、海へ着いてから、どうするの?」
ヒロは無言のまま、小路角を1つ曲がります。
「ねえ、なんなの。無視することはないでしょう。まさかヒロまで酔っているわけ?」
ヒロのくちびるは開きませんが、急に脳の中でナンバー1の声が聞こえました。
「低性能な脳へ入りこんで悪い。ニットの薬剤師と仲がいいなら、頼みがある。あんたの姿を出させるから、特注の薬を大至急で調合してもらってほしい。むずかしい薬じゃない」
{イヤ。深夜の担当がイイ空気を出す男なのを知っているでしょう。こんなボロボロのメイクじゃ出られない}
「まずそこへツッコむのか。おもしろい女だ」
{おもしろくない。ツッコむところがたくさんあるのはわたしにもわかるよ。どうして急に脳の中へ入ってくるの? どんな薬を調合してもらうの?}
「幸せくんは人形の目に気づいたか?」
{うん。本物の人間の目に似せてある}
「似せてあるんじゃない。本物の人間の目だ」
わたしの背中の中心線を、上から下へ汗がなぞりました。
「いいか、低性能。あの目を決して見るな。キョーへ油断するな」
{だから、わたしの脳の中へ入って会話しているの? ここでの会話も危険なの?}
「ひょうたんから駒というのはこれだ。ウイスキーを飲んでいたおかげで、ぎりぎり救われた」
{なんの話?}
「マザコン、ロリコン、男はめんどうなやつばかりだ。やっかいな女を妊娠させてくれた」
ヒロがウイスキーの残り香のするツバを吐き捨てました。