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人形と人魚と人間・story113

「こんばんは。この子の名前は憂いと書いて、ゆう」

 もう1度お辞儀をした青い女の子の笑顔が街灯を青白く反射します。突き出された、憂という人形の女裸も同じような色で目を見開いています。

「どうして、憂いなんて」

 濡れた服がよく乾いていないのか、背中へ寒さが戻ってきたような気がしたわたしは軽く身ぶるいしました。

「人形の名前なんて、どうでもいいだろ」

 ヒロが女の子へ近づき、幼いお腹をなでました。

「あなた、何歳?」

 女の子は笑顔を絶やさないまま、人形をヒロへかかげます。

「こんばんは。もう大人。24歳くらい」

「人形の年齢なんて、どうでもいいの。あなたは何歳?」

「こんばんは。キョーは妹だから、10歳」

 キョーと名乗った女の子は人形で自分の顔を隠しました。

「こんばんは。憂はキョーのお姉さんで、みなさんの味方」

 ヒロが梓を見ました。

「妊娠しているけど、胎児は自然脳。もちろんこの娘も。わたしたちとは関係ないの?」

「sub。キョーの話を聞いてください。おどろきます」

 キョーは人形の陰に顔を隠したまま、まるで人形が話をしているかのように声を出します。

「こんばんは。憂にはお兄さんやお姉さんがいる。名前を教えてもらえてうれしい。幸せくん、あずさ、甘奈、うれしい」

 わたしは首をふりました。

「幸せくんは人形のお兄さんじゃないよ。人形は24歳でしょう。幸せくんはまだ0歳以下だから」

 ヒロがわたしへ首を曲げてきました。

「バカ。まともに子どもの相手をするな。この娘は人形と胎児に同じ名前をつけている。というより、胎児の存在が実感できないので、人形へ転化しているみたいだ」

 街灯を浴びる人形の裸が色気を失ったように見えました。代わりに、得体の知れない性能を秘めているように感じられます。胎児の魂が乗り移っている気がしてきます。

 ヒロが腕組みをしました。

「甘奈の妹なら、どうして改造脳じゃないの? 子宮の中の憂は自然脳だ」

「こんばんは。わたしはヒロの友だち。脳や体の中をのぞかないで」

 梓の表情が街灯の下で陰りました。

「sub。友だちという約束をしてしまったのです。ヒロやみりさも友だちだからと言いました。だからヒロも、のぞかないであげてくたさい。わたしがウソつきになってしまいます」

「どうして友だちになった? この娘にはなにがある?」

「sub。キョーの話を聞いてください。子宮の中の憂はまちがいなく、わたしの妹なのです」

 キョーは人形の憂を子宮のあたりへ当てました。

「こんばんは。あの人を知っている。消しゴムを買いに行ったら、声をかけられた。“地球で1番かわいい消しゴムを買ってあげる”と言われた。ずっとついていったら、せまい階段のあるホテル。初めてだから、ゆっくり、ゆっくりしてあげなきゃいけない。あの人はそう言って24時間かけた」

 ヒロが街灯の圏外へツバを吐きました。

 背中が寒かったわたしはお腹が熱くなるのを感じました。

{あの人、最悪の人だ。もう1回殺してやりたい}

「こんばんは。服を着てから家へ帰ったら、お母さんが怒っていた。ありのまま全部話したら、もっと怒った。“キョーなんか海に落ちて死んでしまえ”と言われたから、人形の憂を連れて海に行った。キョーの家から海まで歩いて30分くらい。30分のうちに、お腹の中の憂が話しかけてくれた。“あの人の言葉だよ。「おまえが最後の女。未成年だから、リストへは匿名で載せておこう」”あの人の言葉を聞いた時、憂はせっかくだから助言ということを、あの人へしてあげた。“架空の妊婦を1人載せておくと、マジックPが混乱しますよ”あの人がおどろいた。“「こんなに成長進化の速い胎児は初めてだ。弱年齢の胎児ほど優秀になるという話は本当らしい」”憂は優秀。でも海に落ちて死んでしまうから、無意味。キョーは港のコンクリートから海に飛びこんだ。地球の羊水は冷たかった。心臓すぐ止まると思った。憂の声が聞こえた。“人魚ですよ。人魚が泳いできますよ”人魚がキョーたちを助けてくれた。人魚が暮らしている海中の家で、キョーは濡れた服を着替えた。人魚は言った。“キョーの着替えは持っているけど、人形さんは裸の生活になるから”キョーはお腹の憂の話をした。人魚は“今のままでは死んでしまう。手術で助けてあげる”と言ってくれた。“すぐに手術してあげる。その代わり、頼みごとを聞いてくれる?”お腹の憂が返事をした。“手術してもらわないと、憂は死んでしまう。手術を受けよう”人魚は手術が上手で、憂の声は聞こえなくなった。でも憂は生きている。もう少ししたら、エコー写真というもので撮影してくれる約束。キョーはすぐに元気になった。子ども人魚になって海を泳いだ。人魚は子ども用のボンベを持っていた。人形用のボンベはなかった。“人形は呼吸しないから、だいじょうぶ”人魚はそう言ってから泳ぎ方を教えてくれた。“憂もこうやって、キョーの子宮を泳いでいるから”人魚はゆっくり、ゆっくり優しく教えてくれた。泳ぎが上手になってから、頼みごとを実行する日になった。今日、コンクリートまで泳いだ。太陽が久しぶりに見えた。途中で人形の憂を落としてしまったけど、憂は自分で浮かんできた。頼みごとはかんたん。憂のお兄さんやお姉さんを、人魚のところへ案内する。人魚は羊水の底でみんなを待っている。泳ぎ方を教えてあげるから、だいじょうぶ。ゆっくり、ゆっくり泳ぐからだいじょうぶ」

 ヒロがツバを飲む音が聞こえました。

「まちがいなくドクターSだ。海中にいるのか。国が総力をあげても見つからないはずだ」

「ハヒヒ。海中潜伏。たまの散歩がダイビング。生活や手術ができるくらいの豪華な海中設備がある。誰かに援助されている確率99%」

「たぶん、海外の政府とつながっている。世界的な人物なんだから、可能性は100%と言ってもいいはず」

「ヒヒヒ。100%は理論上、存在しない。たとえ過去や現在のことでも」

 ヒロは人形の頭をなでました。

「あずさの友だちなら、わたしたちは全員友だちになる。もう脳内をのぞかないよ。その代わり、おたがいにウソをつかないという約束をすることになる。どっちにしろ、ウソをつけば体外反応へ出るから、のぞく気がなくても見えてしまう。友だちへは正直に接してほしい」

「こんばんは。キョーと憂は正直」

「ドクターSのところには他に誰かいた?」

「こんばんは。人魚は1人暮らし」

「あの人はリストの最後に架空の人物を書いたの?」

「こんばんは。憂が助言ということをした」

「ドクターSはわたしたちを連れてくるように、頼みごとをしたの?」

「こんばんは。必ずついてくるからただ会えばいい、と言われた」

「憂の声は全然聞こえなくなった?」

「こんばんは。聞こえない。話をしない。でも生きている」

 キョーは子宮のそばで持っていた人形を、街灯の下へ持ち上げました。

 あずさの声が煙草の煙と一緒に吹きだされます。

「sub。キョーの言葉にはウソがありません。ドクターSのところへ行くことができそうです」

 ヒロが腕を組み直します。

「残りの妊婦問題と、ドクターSの所在地問題が一気にかたづいたのは信じられないほどの好転だ。臨月というタイムリミットがプレッシャーになっていたけど、今のキョーの話なら、手術はとてもかんたんそうに聞こえる。年長の幸せくんですらまだ10週に達していないのだから、わたしたちは時間的余裕をむしろたくさん持っていることになる」

 わたしは少しだけ混乱していました。キョーの話し方が幼いうえに、人形と胎児が同じ名前なので、うまく話の整理がつかないまま、とにかく肝心な部分だけ理解しながら、自分の子宮をなでました。このまま順調にドクターSへたどり着き、順調に手術を受けられたなら、幸せくんとはしばらく話せなくなります。幸せくんが記憶を保存し続けたとしても、会話ができるようになるまで数年かかるでしょう。

「キョー。憂は記憶を保存したままなの?」

 わたしは確認したくなって、声をかけました。

 キョーが人形とともにわたしを見ます。

「こんばんは。人魚は言った。“記憶という情報を認識するのが人間であるということ。記憶はすべて過去であるということ。現在の情報は光子速度の分だけ過去になるから、現在もすべて過去。つまり現在を認識しているというのは錯覚で、厳密には過去の記憶を認識していることになる。だから人間は過去の記憶だけを認識する、ただそれだけの生物であるということ。記憶がなくなれば、ちがう人間になってしまうけど、憂はちがう人間になんかなっていないから、安心して泳いでほしい”キョーは言葉の意味がわからなかったから、何度も聞いてようやくおぼえた。人魚はゆっくり、ゆっくり教えてくれた」

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