人間と母体と胎児と変異と女の関係・story11
「耳の奥の声」と言ってきましたが、正確な表現ではありません。声が聞こえるわけではないのです。
どう表現すればいいでしょうか。
たとえばこの文章を読む時、脳の中で声というか、文章というか、とにかく文字が発生し、意味を理解するのだと思います。
文章を読むのはみなさんの意志によるものですが。
「耳の奥の声」は「わたしの意志と無関係に文章を読まされているような感覚」とでも言えばいいでしょうか。強制的にメールを読まされているような感覚です。意志と無関係に考えごとをしているような感じです。
声質はあの人に似ていますが、声の調子は「かしこい小学生」のようです。高まったり低くなったりという波のある声で芝居口調だったあの人とちがい、「謎解きの説明をする名探偵コナンくん」のように淡々と力強く語り続けます。
「メールを読んでいるような感覚というより、電話の関係といった方が近い。人間は文面からだけでは発信者の真意をほとんど汲みとれない。面と向かって会話しながら、主に相手の表情や声の抑揚などから真意を読みとる。みりさは俺の声の調子と文面しかわからないから、俺の本心を完全に理解はできない。メールの交換で成り立っている人間関係よりはいいが、顔を見ながら会話する関係よりは理解が足らなくなる。電話の関係と同等だ」
わたしは夢からさめようとしました。
時々聞こえていた「耳の奥の声」は短く単発的だったので空耳だろうと思いこむことができましたが、今聞こえている声は長すぎ、理路整然としています。空耳のレベルではありません。ならば夢でしょう。早くさまして、シャワーを浴びなきゃなりません。
「夢でも空耳でもない。みりさの方からは電話の関係にしかできないが、俺にはみりさの脳がすべて読みとれる。顔を見ながらの会話でも100%の真意理解をできないのが人間関係だが、俺にはみりさがなにを考え、なにを思い、なにを想像しているのか100%理解できる。これは母体と胎児の特権的関係だ。そしてこれは現実だ」
バスルームへ向かいました。
「シャワーを浴びる前に、玄関ドアのチェーン鍵をかけよう。誰かがみりさの命を狙っている可能性がある」
バスルームへの廊下で立ち止まりました。すわりこみました。寝転がりました。仰向けの視界の中央でダウンライトの茶色灯が弱く光っています。乱視がかっているので、目をぼんやりさせると、ライトが2つならんでいるように見えます。どちらが本物なのか、いつも不思議に思います。
「どちらも本物だ。右目と左目の画像を脳がそれぞれ単独に処理しているにすぎない。それよりチェーン鍵をかけて、窓のカーテンを閉めろ」
右側のライトへぼんやり話しかけました。「あなた、だれ? なの?」
「子宮の中の胎児だよ。みりさが幸せくんと名づけた胎児だ。名前については気に入っていないので変えてほしい」
幸せくんと名乗る声はわたしの耳の奥を素早く流れますが、わたしは言葉をおぼえたばかりの赤ちゃんのように弱々しくしか話せません。
「たいじは、はなさない」
「それは人間の常識にすぎない。人間は宇宙の1%も知っていないのだから、人間の常識などほとんど的外れだ。思いこみの常識なんかにとらわれず、自分の知覚上に起こっている現象を受け入れろ」
目に力をこめるとダウンライトが1つに戻りました。
立ち上がり、寝室へ行くと、鏡台の引出しから中絶手術を受けるために必要な書類を取り出しました。
「中絶を急ぐのはいい判断だ。俺を殺せ。もう耳の奥の声は聞こえなくなるし、命を狙われる必要もなくなる。誰かの狙いはみりさではなく、俺だからな」
書類を見つめながら動きを止め、耳の奥の言葉の意味を考えました。力の抜けた目に、書類が2枚へブレて見えます。
自分の知覚上に起こっている現象のどこからどこまでが本当なのでしょうか。
「すべて本当だ。数千年も経てば、人間は自分の知覚上に起こるすべてを理論的に表現できるようになるだろう。しかし現代の人間はまだ胎児レベルに幼稚だ。なにも知らなさすぎる。なによりの無知は、自分たちがなにも知らないことを知らないことだ」
ベッドへすわり、子宮のあたりを見下ろしました。自分では決して見ることのできない、自分の子宮。そこで暮らす胎児ももちろん見えません。そもそもわたしが本当に妊娠しているのかどうか、まだなんの自覚症状もないため、わたし自身の知覚では断定できません。生理が遅れているというだけの理由で産科へ行き、人間の最新技術のおかげで妊娠は断定されたのです。
「幸せくん」
わたしは大きな声を出しました。
「みりさ、声を出すな。隣人からヘンに思われる。なにかを思ってくれただけで、俺へ伝わる」
「声を出さなきゃ話した気分にならない。あなたが本当にわたしの赤ちゃんなら、お腹を蹴って」
「それはまだできない。手足の力が足りない」
「なのに、どうして頭だけは立派なの?」
「父親から遺伝された変異脳だからだ」
「変異脳? あなたは人間をバカにするけれど、あなた自身は人間ではないの?」
「変異だけれど、人間だよ」
わたしは子宮をなでました。
「人間なのね。わたしと同じ人間ね」
「変異だけれど、同じだよ」
安心したわたしは書類をにぎる手へ力をこめました。わたしの意図をすぐに理解したのでしょう。初めて、幸せくんの声から冷静さが消えました。
「やめろ。中絶しろ。俺を殺せ」
2つに引き裂いた書類を見つめる目に涙がたまってきました。ぼやけた書類が4枚に見えます。
「幸せくん。生まれ出てくる日を楽しみにしているよ。あなたはどうしてなのか人間について詳しいようだけど、女に関してはまだまだ子ども。知らないことが多いみたい。女の真意は最初から常識なんか相手にしていないのよ。ただ感情に押されるのみなの」