喫煙室の火・story108
檻の中へ入ってきたランスの指先でライターが光りました。暗闇へ慣れた目には水晶以上の輝きに見えます。
「ハヒハ。みりさちゃんの鼻が大きくなっている」
「こんなに暗いのに、自然脳でもはっきりわかるの?」
わたしはランスのライターを吹き消しました。
ヒロが鉄格子を蹴ったような音を鳴らします。
「くだらないことを言ってないで、さっさと本題を話し合おう。時間がない」
「くだらないとは、なによ。大切な話でしょう。お願いだから、鼻を元に戻して」
「3百万、払えるか?」
「ボッタクリの整形屋なの? なんでも盗めるんだから、お金なんかいらないでしょう」
「この非常事態に優先したいほどなら、数百万の価値があるだろう」
「人の顔を数百万程度に言わないで」
値段設定中の顔面に、水が一筋飛んできました。ぬるい水が鼻の腫れに弾かれます。
{なんだか煙草臭い水}
ヒロがせきこみます。
「ランス。状況を把握していないのは低性能だけなんだから、わたしにまで水を撃つな。まして口に入れるな。この水は最悪の味だ」
「ハヒヒ。ヒロちゃんに謝る。みりさちゃんには謝らない。とりあえず状況を説明するから把握してほしい」
わたしはまっ暗な中で目を閉じると、状況を想像しました。
「どうして幸せくんはランスとヒロの接近に気づかなかったの?」
「ヒヒヒ。ヒロちゃんが幸せくんを情報操作した。水晶ボールからの情報操作が解除されているかどうかの実験」
わたしは暗闇へ無駄に目を開き、返事をします。
「解除されたの? 幸せくんをだませたの?」
「油断するな。まだわからないだろう」
せきの後で、かすれている、ヒロの声が続きます。
「操作がどこまでのレベルで行われているかわからない。もしかしたらわたしが幸せくんをだましたこと自体が操作されたものかもしれない」
わたしは暗闇へ無駄にふりかえりました。
「でも監視カメラは暗視しているわけでしょう。ここで3人が集まったことだって監視されているはずでしょう。どうして操作で解散させられないの?」
「だから、相手がなにを考えているかわからない。油断するな」
暗闇で無駄にヒロへうなずいたわたしはランスの方を見ます。
「いや、みりさ。ランスはもっと左だ。カメラの位置も全然ちがったし」
幸せくんが細かいことを言います。
「詳しい位置はどうでもいいの。ヒロとランスはどうやって牢から脱出してきたの?」
「ヒヒヒ。ドクターⅡの針金は万能」
「梓とあずさは?」
「ハヒヒ。喫煙と睡眠中。とりあえず3人だけで脱出する」
「どうしてそんな薄情なことを思いつくの?」
「ヒハハ。薄情というわけじゃない」
「ヒロとランスはどうして操作されないの? 咲藤さんもFも占いの開店時刻になったから、カメラを見ていないの?」
「ハヒヒ。そんなマヌケのはずない」
「じゃあ、わたしたちはどうして集合トークできるの?」
「ヒヒ。これから説明する」
「アリ地獄は抜け出せない場所でしょう。牢から脱出しても、途中で戻されたら意味がない。どうするつもり?」
「ハヒ」
かすれのとれたヒロの声が暗闇を蹴ります。
「低性能。少し黙れよ。ランスの話を聞け」
「状況を把握しろと言うから、質問したでしょう」
「だから、状況を把握できる人間なら、ごちゃごちゃ言わずにランスの説明を聞こうとするだろう。本物のバカだな」
わたしは暗い空気へ無駄に口をとがらせ、黙りました。
ランスの気配が動くと、ベッドのシーツが明るくなりました。
「ヒヒヒ。不幸の水は殺虫剤。シーツにしみらせて点火すると燃える」
「火事にするの? 梓が向こうにいるのに」
「ヒヒヒ。いいかげん黙ってほしい。明かりがいらなくなったら、火は消す。ヒロちゃんとみりさちゃん、口を開けてほしい。水鉄砲で狙う」
めずらしく、わたしとヒロの声が重なりました。
「なにを飲ませるつもり?」
「ヒハハ。2人の声が仲良くなった。だけど飲み物は別。みりさちゃんにはニコチンの溶けた煙草水。梓ちゃんが吸殻を捨てた水差しから採取した水」
「Fの枕元で、新しい水鉄砲へ入れたの?」
「ヒヒヒ。時間が足りないから、黙って飲んでほしい」
「イヤ。そんな水は飲みたくない」
「ヒヘヘ。わがまま言われても困る。ヒロちゃんにはウイスキーを飲んでもらう。これもFの枕元で、牛乳の水鉄砲に詰め替えてきた」
火を反射するヒロの肌が笑います。
「つまり酒嫌いの甘奈へウイスキー、煙草嫌いの幸せくんへニコチン水を飲ませて、性能をダウンさせるわけか」
「ヒヒヒ。改造脳はただの受信機になっている。今は操作されない状況だけど、いつ操作が再開されるかわからないから、念のため飲んでおく」
「わたしが自然脳に切り替え、甘奈と幸せくんのシステムがダウンすれば、ここにいる3人はいずれも自然脳になる。操作を受けないまま、自由行動をとれる。さすがはランスだ。母子ともに改造脳の梓とあずさは自然脳になる方法がない。後で助けにくる算段か」
ヒロは火に向かって口を開きかけましたが、わたしは口を閉じました。しかしそれでは話せないので、ぎりぎりだけ開けました。
「イヤ。ニコチン水なんて飲みたくない。本物の煙草を梓のところから持ってきてよ。ライターだって梓のものを持ってきたわけでしょう」
「ヒヒヒ。気煙を吸っても効果は薄い。液体摂取すれば、長時間幸せくんをダウンさせられる」
子宮の叫びが聞こえてきます。
「イヤだぞ。胎盤がつながっているのに、ニコチン水なんか飲ませない」
わたしのくちびるが痛いほどにふさがります。会話のために開けようとしても、幸せくんの操作にはさからえません。
「ヒハハ。早く口を開けてほしい」
わたしが子宮を指さしながら首をふると、ヒロが目を閉じます。わたしの子宮に軽い衝撃が響き、くちびるが開くようになりました。
わたしは自由になったくちびるをヒロへ向けます。
「幸せくんを気絶させたの?」
「お兄さんのくせに幸せくんは聞きわけがないな。甘奈は状況判断できているから、わがままを言わないぞ。さっさと口をランスへ向けろ」
「幸せくんが気絶したなら、もう飲まなくていいでしょう。わたしだってニコチン水なんか飲みたくない」
「いつ目をさますかわからないだろう」
「待ってよ。冷静になって」
「いいかげんにしろ。あんたが冷静になれ。低性能母子のせいで、いつもスムーズさが欠ける」
「だっておかしいでしょう。どうして急に操作されなくなったの? カメラでさっきまで監視されながら、もてあそばれていたのに、どうして自由になったの?」
「あんたの“どうして?”はもう聞き飽きた。いつまでもガタガタ言うなら、わたしの操作で口をこじ開けるぞ。時間に余裕があるわけじゃない。ここで急に操作され始めたら、もう終わりだ」
わたしは牢の角にある監視カメラを見つめました。カメラのレンズにはシーツの上で燃え広がる火の勢いが揺れています。カメラの向こう側は見えません。牢の中からあふれ出る情報を、認識している者がいるのかどうか、わかりません。
「もしかしたら、ランスの作戦や行動もすべて操作されていることかもしれない。なにをどう信じていいのか、わたしにはわからない」
目つきを鋭くしたヒロが口を閉じました。
ランスが水鉄砲の先を火へ向けると、ニコチン水でシーツの消火を始めました。