夢とニコチンの力・story10
バイクがあの人の姿を踏みつぶし、耳の奥の声が映画解説のようにナレーションをくれた夜、わたしはどこをどう歩いて帰ったのかおぼえていません。
ちゃんと靴を脱ぎ、ソファへすわり、水道の水をブランデーグラスへ入れてテーブルの上へ置き、飲もうとはせず、ただ呆然と、暗く激しいシーンを何度も回想しました。
というか、脳の中心で自動的に再生されました。何度も何度もあの人の体が闇を飛び、闇へつぶされました。
耳の奥はあれっきり静かになり、街もいつもどおり静かな日曜の夜でした。
わたしはいつまでもソファの上ですわりつくしていましたが、やがて眠ったようです。
気づいた時にはカーテンを閉めていなかったベランダいっぱいに朝が明るくなっていました。
帰ってきたままの姿でエレベーターを降り、近くのコンビニで朝刊と煙草を買い、部屋へ帰ってからライターを探し、ソファに戻って煙を吐きながら朝刊をめくりましたが、あの人に関する事故はどこへも載っていません。
夢だったのかもしれない。
あの人に出会ってから夢の連続です。
わたしはどこかで急死したのかもしれません。ずっと眠ったままでいるから、ずっと夢を見ているのかもしれません。
「夢の話なら咲藤さん以外へは話しづらいけど、すべて夢なら誰へ話しても同じだね」
独り言を吐きながら、久しぶりの煙草へむせ、頭からぼんやり力が抜けました。
「ニコチンは力があるね」
独り言をつぶやきながら、立ち上がりました。わたしの友人は昼まで寝ている人や夕方まで寝ている人が多いので、朝から夢の話をできる相手はいません。
ベッドでもう一度寝よう。夕方まで寝よう。
その前にシャワーを浴びようと思った時、耳の奥がざわつきました。
「ニコチンを吸われると寒くなる。羊水の温度が下がる感じだよ。煙草はこれっきりにしてくれ。あとつけ加えることが2つ。1つ目は、起こったことすべて、誰にも話すな。自分の中から決して漏らすな。2つ目。あらゆる記憶は夢でなく、現実ばかりだ。死んだ者は夢など見ない。生きている者も夢なんか見ない。脳の記憶装置は睡眠中に最適化するが、最適化は必要な記憶か不要な記憶かという選別を中心に行われる。その作業の断片を記憶するのが夢だ。もちろん夢は不要な記憶なのでただちに消去されるため、誰も夢をいつまでもおぼえていたりはしない。みりさがおぼえていられるのは、それが夢ではなく、必要な現実記憶だからだ」