武将 真田昌幸 第3話廊下を行き交う足音を初めて読む
【第1章‑2】 廊下を行き交う足音を初めて読む
天文十九年(1550)、信濃国上田近郊。
武田信玄が川中島方面への備えを進め、
信濃の村々では静かな戦備が続いていた。
真田家の屋敷も、
その外界の揺れを家中の動きとして受けていた。
幼い昌幸は、廊下の端に座り、家臣たちの往来を見ていた。
朝、廊下に細い光が差し込んだ。
板の面は前夜の湿り気をまだ少し残しており、
足音が浅く沈んだ。
家臣が文書を抱えて行き来する。
武田家から届いた書状を、
どの順で幸隆へ渡すかを巡り、声が少し高くなる。
歩幅の広い者はゆっくりと板を踏み、
狭い者は短い間隔で音を刻んだ。
ときどき、歩幅が乱れる者がいて、
その乱れが廊下の空気をわずかに沈ませた。
昌幸は、廊下の端からその足音を目で追った。
家臣同士が短い声を交わした。
「甲斐からの使者は、まだか」
「川中島の様子が、また変わったらしい」
声の高さが一定ではなく、少し揺れる者もいた。
高い声は廊下に軽く響き、低い声は板の面に沈んだ。
その揺れが、家中の空気の揺れを示していた。
幼い昌幸は、言葉の意味までは分からぬまま、
声の高さの違いだけを聞き分けようとしていた。
家臣の視線も一定ではなかった。
廊下の奥をまっすぐ見る者、
周囲を探るように視線を動かす者、足元に目を落とす者。
文書を抱えた者は、
幸隆の居間の戸の方へ視線を向けてから歩き出した。
視線の向きは、家臣の心の向きと同じ線を示していた。
昌幸は、家臣の視線がどこへ向かうのかを静かに追った。
視線が泳ぐとき、廊下の空気もわずかに揺れた。
昼前、家中の者が廊下の隅で話していた。
「北の村の名主が、槍の柄をまた太くしたと申しておる」
「川向こうの村では、戸を閉める時刻が早くなったらしい」
村々の戦備は、家中の声にそのまま乗っていた。
名主は武田家の軍役に備え、
村の者たちへ細かな指示を出していた。
槍の柄の補強、戸締まりの強化、
兵糧の備え──そのすべてが声の揺れとして廊下に届いた。
昌幸は、家臣の声の高さが変わるたび、
廊下の空気が少し沈むのを感じていた。
午後、廊下の往来はさらに増えた。
川中島方面の様子を伝える使者の噂が家中を走り、
家臣の歩幅がわずかに速くなった。
板を踏む音が続き、足音の間隔が詰まる。
歩幅が乱れる者の足音は、板の面に浅く沈んだ。
昌幸は、その乱れを目で追った。
足音の違いが、家中の緊張の違いを示していることを、
身体で受け取りながら見ていた。
夕方、家中の者が幸隆の居間の前に集まった。
「川中島の気配が、また変わったようだ」
「甲斐からの文書には、動員の話が増えておる」
声の高さが少し揺れ、廊下の空気が重くなった。
家臣の視線は廊下の奥と戸口の間を行き来し、
足音は朝よりゆっくりになった。
家中の空気が、外界の揺れをそのまま反映していた。
昌幸は、廊下の端からその変化を見ていた。
歩幅の違い、声の高さの揺れ、
視線の向き──それらが一本の線として目に積もり始めていた。
夜、廊下の灯が弱く揺れた。
家臣の声は低く、歩幅はゆっくりだった。
文書を抱えた者が静かに戸の前を通り過ぎる。
板の面に沈む足音が、家中の空気の沈みを示していた。
幼い昌幸は、廊下の端に座ったまま、
その足音と声と視線の違いを見続けた。
まだ言葉で外界を説明することはできない。
だが、自分の意思で見る行為が、
この廊下で静かに始まっていた。
歩幅の違い、声の高さの揺れ、視線の向き──
それらが家中の空気の揺れと重なり、
幼い昌幸の身体に薄く染み込んでいった。




