武将 真田昌幸 第17話戦国の大局線(1567〜1572)
第4章 政治線の揺れと家中の再編(1567〜1572)
【第4章‑0】 戦国の大局線(1567〜1572)
この五年間は、信濃の国衆にとって
外界の政治線が一気に東へ押し寄せてくる時期だった。
1567〜1568:織田家の上洛が“東側の揺れ”を生む
1568年、織田信長が上洛する。
この一手で、近畿・美濃・尾張の政治線が一気に安定し、
揺れの中心が東へ移動した。
武田家から見ると、
「西側(京都方面)は信長が押さえた」
ということは、
揺れは東側(関東)から来るようになる。
この“揺れの向きの反転”が、
武田家の戦略線を大きく変えた。
武田家は“東側の防衛”を強めざるを得なくなる
織田家が西を固めた以上、
武田家は東側(関東)を固めないと、
信濃が揺れに巻き込まれる。
東側には北条家がいる。
北条は関東の地形線を押さえ、
小田原を中心に強固な防衛線を持つ。
信長の上洛によって、
武田家はこう読んだ。
「西は織田が押さえる。ならば東を固めねば、信濃が挟まれる。」
この判断が、
北条攻め(1569) の根本理由になる。
1569:北条攻めは“東側の揺れを止めるための戦”
武田家は駿河へ進出し、
北条家と正面から衝突する。
この戦は「領土拡大」ではなく、
東側の揺れを止めるための防衛戦。
北条を押さえれば、
信濃の東側の揺れが止まり、
家中の線が安定する。
しかし、北条は強い。
関東の地形線を熟知している。
武田家は東側の防衛線を維持するために、
信濃国衆の兵力を増強する必要が生まれた。
ここで真田家が巻き込まれる。
1570〜1572:織田家の勢力拡大が“西側の圧力線”を生む
信長は越前・北陸へ進出し、
浅井・朝倉を滅ぼし、
北陸方面の揺れも押さえた。
すると武田家はこう読まざるを得ない。
「東側は北条、北側は織田。
信濃は二方向から圧力線を受ける。」
この二方向の圧力線を解消するために、
武田勝頼は 西上作戦(1572) を決断する。
西へ出て、
織田の勢力線を押し返すための戦。
真田家は“二方向の揺れ”を同時に受ける
信濃の国衆の中でも、
真田家は地形線の中心に位置している。
東側=北条の揺れ
西側=織田の揺れ
南側=武田の命令線
北側=越後の気配線
つまり真田家は、
四方向の揺れが交差する位置にある。
だから真田家は、
武田家の戦略線が変わるたびに
「兵の配置」「兵站線」「名主の動線」を
すべて組み直さなければならなかった。




