世界でいちばん軽いタクト
大きな背中の指揮者、古戸勉は、楽屋で絶望の淵に立っていました。
「……ない。どこを探してもないんだ」
開演まであと数分。彼の手にあるはずの、恩師から譲り受けた大切なタクトが見当たりません。勉にとってそのタクトは、音楽の神様と繋がるための唯一のアンテナのようなものでした。それがない自分は、ただの大きな、声の大きな男に過ぎない。勉は巨大な体を丸め、パイプ椅子に座り込んでしまいました。
そこへ、ふんわりとした髪を揺らしながら、バイオリニストの義堂呉明がやってきました。呉明はいつものように、いたずらっ子のような瞳を輝かせています。
「どうしたのさ、勉ちゃん。そんなに縮こまってたら、せっかくの燕尾服がシワになっちゃうよ」
「呉明……タクトを忘れた。もうおしまいだ。今日の第九は、バラバラの音の塊になってしまう」
勉の深刻な訴えに、呉明は「ふーん」と気の抜けた声を出し、楽屋の隅にあるケータリングコーナーへ歩いていきました。そして、使い捨ての割り箸が入ったカゴの中から、一膳の長い「菜箸」を抜き取りました。
「はい、これ」
「……呉明、これは菜箸だよ」
「そう。さっきお弁当の唐揚げをつまもうと思ったんだけど、勉ちゃんがあまりに悲しそうだから譲ってあげる。ほら、持ってみて。意外としっくりくるよ」
「ふざけているのかい? 僕はこれから、何百人もの人生を背負って指揮台に立つんだ」
「人生を背負うのは重いけど、菜箸なら軽いでしょ? 勉ちゃん、音楽ってさ、立派な道具が作るものだっけ。僕らが今日まで一緒に笑って、喧嘩して、鳴らしてきた音の記憶。それを君が、この箸で少しかき混ぜてくれるだけでいいんだよ。美味しいスープを作るみたいにさ」
呉明はそう言うと、愛用のバイオリンを顎に当て、ピチカートで一音、軽やかな音を鳴らしました。勉はその音に弾かれるように、ゆっくりと菜箸を手に取りました。
「……軽いな」
「でしょ? 魔法の杖より、お腹が空く杖の方が僕らにはお似合いだよ」
ベルが鳴り、二人はステージへ向かいました。
ライトを浴びた指揮台に立ち、勉は菜箸を静かに構えました。最前列の観客が少しだけ目を見開いたのが分かりましたが、勉はもう気になりませんでした。
振り下ろされた菜箸が空気を切ると、そこから生まれたのは、これまでにないほど柔らかく、温かい音でした。
武骨な勉の動きに合わせて、オーケストラの団員たちの表情が緩んでいきます。それは、厳しい修行の成果を見せつけるような音楽ではなく、大切な誰かと食卓を囲んでいる時のような、安心感に満ちたハーモニーでした。
呉明のバイオリンが、その温かなスープの上を跳ねるように、自由自在な旋律を描きます。勉は、菜箸の先から楽団員一人ひとりの心の「一番美味しいところ」が引き出されていくのを感じていました。恩師のタクトという重圧から解き放たれ、ただ音楽が好きだった少年の頃の気持ちが、指揮台の上で爆発していました。
演奏が終わると、ホールは割れんばかりの拍手に包まれました。誰も、それが菜箸だったことなど笑いません。そこにあったのは、完璧な技術を超えた、人間味あふれる最高の音楽だったからです。
楽屋に戻る通路で、勉は少し照れくさそうに菜箸を眺めました。
「呉明、ありがとう。おかげで、音楽の本当の姿が見えた気がするよ」
「いいってことよ。でも、その箸は返してね。僕、まだ唐揚げ食べてないんだから」
二人は顔を見合わせて笑いました。外はすっかり夜でしたが、二人の胸の中には、明日を照らすための新しい太陽が、さんさんと輝いていました。




