父と娘
「……クリス?」
かすれた声だった。
だが確かに、それはアルフレッドの声だった。
その一言が、空気を切り裂く。
燃え盛っていた炎が、まるで意思を持ったかのように揺らぎ――静かに消えていく。
サラもまた、無意識にその手を下ろしていた。
戦場に満ちていた熱と緊張が、一瞬だけ遠のく。
少女の体が止まる。
呼吸すら忘れたかのように。
クリスティーナはゆっくりと、ぎこちない動きで振り向いた。
関節が錆びついた人形のように、わずかに遅れて動く。
視線が重なる。
父と娘。
その間にあったのは、言葉では埋められない時間と、失われた記憶、そして確かに存在する血の繋がりだった。
沈黙。
風が吹く。
焦げた匂いが鼻を刺す。
アルフレッドが一歩、前へ出た。
踏みしめる音がやけに大きく響く。
「クリスティーナ」
その名を呼ぶ声は、震えていた。
威厳も、騎士としての誇りも、その瞬間だけは消えている。
ただの父親の声だった。
少女の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
理由はわからない。ただ痛い。
頭の奥で、何かが軋む。
断片的な記憶。幼い日の笑い声。暖かな手。優しい声――
それらが一瞬浮かんでは、霧のように消えていく。
「……お父様」
自然と、その言葉がこぼれ落ちた。
自分の意思なのか、残された記憶の残滓なのかもわからない。
それでも確かに、その呼び方だけは、体が覚えていた。
サラが息を呑む。
「本当に……生きて……」
信じられないものを見るように、彼女は二人を見つめていた。
敵として対峙していたはずの少女が、今はまったく別の存在に見える。
アルフレッドの目が揺れていた。
半年前。
炎と崩壊の中で、失ったと思っていた娘。
遺体すら見つからなかった。何度も夢に見た。
何度も、呼びかけた。
そして今――
目の前にいる。
傷だらけで、どこか壊れたような瞳をしているが、
それでも間違いなく、自分の娘だった。
クリスティーナが、小さく呟く。
「ごめんなさい」
その声は弱く、今にも消えそうだった。
「思い出せないことが多いの……」
「あなたのことも、全部は……」
言葉にするたびに、胸が締め付けられる。
申し訳なさと恐怖が混ざり合う。
目の前の人を「大切だ」と感じているのに、その理由を思い出せないことが、何よりも苦しかった。
アルフレッドは、ゆっくりと首を振った。
一歩、また一歩と距離を詰める。
「いいんだ」
その声は静かで、しかし確固たる強さを持っていた。
「生きているだけでいい」
それだけで十分だと、心の底から言っているのが伝わる。
「お前がここにいる。それだけで――」
言葉が続かない。
喉が詰まる。
クリスティーナの瞳に、涙が溜まる。
ぽろり、と一粒が頬を伝った。
感情の名前はわからない。
ただ温かくて、どうしようもなく溢れてくるものだった。
だが――
その空気を、嘲笑うように。
背後から、乾いた拍手が響いた。
ぱち、ぱち、ぱち、とわざとらしくゆっくりと。
三人の視線が同時に向く。
そこに立っていたのは、ローゼン侯爵だった。
薄い笑みを浮かべ、楽しげに目を細めている。
「感動的だ」
その声には、微塵の共感もなかった。
「父娘の再会とは。実に美しい光景だ」
アルフレッドの表情が、一瞬で凍りつく。
先ほどまでの父の顔は消え、代わりに冷たい怒りが宿る。
「貴様……」
低く、押し殺した声。
侯爵は肩をすくめる。
「何をそんなに睨む。私は事実を述べているだけだ」
そして、ゆっくりとクリスティーナへ視線を向けた。
「その娘は――私が作った兵器だ」
空気が張り詰める。
その言葉は刃のように鋭く、無慈悲だった。
クリスティーナの体がわずかに震える。
胸の奥で何かが軋む。
「兵器」という言葉が、妙にしっくりとくる自分が恐ろしい。
サラが前に出る。
炎が再び彼女の周囲に揺らめき始める。
「そんなこと、させない」
その瞳には決意が宿っていた。さっきまでの迷いは消えている。
「もう、この子は道具なんかじゃない」
アルフレッドも剣を構える。
守るべきものが、今はっきりと目の前にある。
ローゼン侯爵は、愉快そうに笑った。
「いいだろう」
その手が軽く上がる。
周囲の空気が変わる。
新たな気配が、闇の中から滲み出る。
「では続けようか」
再び、戦場の音が戻ってくる。
炎が唸り、風が荒れる。
父と娘の再会は、ほんの一瞬の奇跡に過ぎなかった。
戦いは――まだ終わらない。




