再会
王都郊外――夜の闇に赤い炎が滲んでいた。
焦げた匂いと、焼け落ちた石壁の残骸が風にさらされ、崩れた研究施設はもはや原形を留めていない。
その地下。
崩れかけた通路を、ひとりの男が足早に進んでいた。
ローゼン侯爵。
かつて王都でも名を知られた貴族であり、禁忌に手を染めた研究者。
その顔には焦りと、それ以上に歪んだ執念が浮かんでいる。
「計画はまだ終わらん……」
低く呟く声は、自分自身に言い聞かせるようだった。
背後では遠く、爆ぜる音と振動が地下にまで響いてくる。地上では戦いが続いているのだ。
だが侯爵は振り返らない。
彼にとって重要なのは、ただ一つ。
その後ろ――数歩離れた場所に、少女が静かに立っていた。
淡い金色の髪が、炎の反射でかすかに揺れる。
灰色の瞳はどこか空虚で、それでいて底知れない深さを湛えていた。
無傷。
まるでこの惨状とは無関係の存在のように。
侯爵は足を止め、振り返る。
「行くぞ」
短く、しかし強い命令。
その声には所有者としての確信があった。
「クリス」
呼ばれた少女は、わずかに首を傾げる。
その動きはぎこちなく、どこか人形めいている。
「クリス……?」
自分の口でその名をなぞるように繰り返し、彼女は戸惑いを滲ませた。
「それが……私の名前?」
問いは静かだったが、そこには微かな揺らぎがあった。
自分という存在の輪郭を探るような、不安定な響き。
侯爵はゆっくりと笑みを浮かべる。
満足げで、歪んだ誇りに満ちた笑みだった。
「そうだ」
一歩、少女に近づく。
「お前は“クリス”だ」
その目がぎらりと光る。
「私の最高傑作だ」
その言葉は称賛のようでいて、完全な所有宣言でもあった。
少女は一瞬、何も言わない。
灰色の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
その奥で、何かが波紋のように広がった。
理解できない感情。
説明のつかない違和感。
そのとき――
遠くの崩れた天井の隙間から、赤い光が差し込んだ。
炎だ。
王都の戦いの火が、夜空を焼いている。
少女は無意識にそちらを見た。
燃え上がる光景。
遠いはずなのに、なぜか近く感じる。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……」
息が、わずかに詰まる。
理由はわからない。
見たことがあるはずもない光景。
それなのに――
懐かしいような、怖いような、失いたくない何かを思い出しそうになる。
次の瞬間、視界が滲んだ。
涙だった。
頬を伝う前に、彼女自身が戸惑う。
(どうして……?)
心が、痛い。
何かを呼ばれている。
どこか遠くから。
声にならない声が、確かに届いてくる。
侯爵が訝しげに眉をひそめる。
「どうした」
冷たい声音。
だがその裏には警戒も混じっている。
少女はゆっくりと口を開いた。
小さく、震える声で。
「誰かが……」
一度言葉を切り、遠くを見つめる。
「呼んでる気がする」
その言葉は、彼女自身にも理解できない確信を帯びていた。
侯爵の表情が一瞬だけ曇る。
だがすぐに笑みに戻る。
「気のせいだ」
切り捨てるように言う。
「お前に過去などない」
「あるのは私が与えた役割だけだ」
その言葉は呪いのように少女へ落ちる。
だが――
完全には届かなかった。
少女の胸の奥で、何かが微かに反発する。
消えきらない感覚。
それと同じ頃。
遠く離れた王都の一角。
炎に照らされた屋敷の庭で、一人の男が空を見上げていた。
アルフレッド。
彼の胸はざわついていた。
理由はわからない。
戦況でもない。
目の前の炎でもない。
もっと個人的で、もっと深いところから来る感覚。
失ったはずのものが、どこかでまだ存在しているというような――そんな予感。
無意識に手を握りしめる。
「……」
そして、確信にも似た思いが胸に浮かぶ。
「クリスティーナ」
その名を、静かに呼ぶ。
夜風が吹き抜ける。
炎の光が揺れる。
「お前は……」
言葉が続く前に、彼は目を閉じた。
だが、その確信だけは揺るがない。
娘は――
まだ生きている。
その夜。
燃え落ちる王都の光の下で。
交わるはずのなかった運命が、再び動き出していた。




