言えなかった言葉
戦いが一段落したあと。
王都の屋根の上には、まだかすかに戦の名残が漂っていた。
遠くでくすぶる煙、崩れた石壁、そして静まり返った街。
だがその静けさは、先ほどまでの激しさが嘘のように穏やかでもあった。
夜風が吹く。
少し冷たい風が、熱を帯びた体をゆっくりと冷ましていく。
マントの裾が揺れ、鎧の隙間を通る風が心地よい。
アルフレッドは空を見上げていた。
雲の切れ間から覗く星々はやけに鮮やかで、まるで今日の戦いを見守っていたかのようだった。
(今日も、守れたな……)
脳裏に浮かぶのは剣を交えた瞬間、仲間の声、敵の気配。
だがそれ以上に、守るべき者たちの顔が浮かんでいた。
「お隣、よろしいですか」
静かな空気を壊さぬような、控えめな声。
振り向かなくてもわかる、その声の主。
「サラか、もちろんだ」
アルフレッドはわずかに口元を緩めた。
サラはそっと屋根に上がり、彼の隣に立つ。
瓦の上に足を置くと、かすかな音が夜に溶けた。
「今日の戦い、お見事でした」
彼女の声は真っ直ぐで、偽りがなかった。
その言葉に、アルフレッドは軽く肩をすくめる。
「皆がいたからだ」
だがサラにとっては違った。
彼がいたからこそ勝てた――そう思っている。
サラの胸がじんわりと熱くなる。
今日、伯爵のために戦えた。
彼のすぐ近くで剣を振るえた。
それだけで、胸が満たされるはずだった。
(……なのに)
どうしてこんなにも苦しいのだろう。
嬉しさと同時に、締めつけられるような痛みが胸の奥に残っている。
「伯爵様のためなら」
思わず口をついて出た言葉。
けれど、その先が続かない。
本当は、その続きがある。
“命だって惜しくない”
――いや、違う。
もっと、別の言葉。
もっと、自分の本心に近い言葉。
アルフレッドが不思議そうに首を傾げる。
「ん?」
サラははっとして顔を伏せた。
頬が熱くなるのを自覚する。
「……なんでもありません」
小さく、逃げるように呟いた。
本当は言いたかった。
あなたのために戦えることが嬉しい。
あなたのそばにいたい。
――好きです、と。
けれど言えない。
(私は……奴隷だから)
その現実が、言葉を喉の奥で押し止める。
どれだけ願っても、越えられない壁。
身分が違いすぎる。
隣に立つことすら、本当は許されない存在。
夜風が強く吹いた。
その冷たさが、熱くなった頬を少しだけ冷ます。
アルフレッドは何かを察したように、しかしそれ以上は聞かなかった。
ただ静かに空を見上げる。
その優しさが、かえって胸に刺さる。
沈黙が二人の間に落ちた。
だが不思議と居心地は悪くなかった。
同じ空を見上げているだけで、心が少し満たされる。
そのとき――
サンが遠くから叫ぶ。
「姉ちゃんー!」
静寂を破る元気な声。
現実へと引き戻される。
サラはびくっと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。
「行きます!」
振り返ることもできずに、声だけを残す。
「ああ」
アルフレッドは短く答えた。
その表情はどこか柔らかく、しかし少しだけ不思議そうでもあった。
サラは屋根から降りながら、胸を押さえる。
ドキドキと高鳴る鼓動が収まらない。
言えなかった。
あと少しだったのに。
ほんの一歩、踏み出せばよかったのに。
それでも――
(これでいい)
そう自分に言い聞かせる。
夜空を見上げれば、星は変わらず輝いている。
だがサラの胸の奥には、言えなかった想いが、静かに、けれど確かに灯り続けていた。




