ローゼン侯爵
暗い廊下の奥から、ゆっくりと影が伸びてきた。
湿った石壁に灯るわずかな明かりが、その影を歪ませ、不気味に揺らす。
やがて、その主が姿を現す。
紫のマントが床をかすめるように揺れ、重たい静寂の中で微かな衣擦れの音が響いた。
細く切れ長の目は、まるで獲物を値踏みするように鋭く光り、口元には冷たい笑みが浮かんでいる。
ローゼン侯爵だった。
「これはこれは」
わざとらしく、ゆっくりと手を叩く。
乾いた拍手の音が廊下に反響し、神経を逆撫でする。
「ノード伯爵とは。こんな場所で会うとは思わなかったよ」
アルフレッドの目が、すっと冷たく細められる。
その視線には、かつて同じ貴族社会にいた者に向ける敬意など一片もなかった。
「……久しぶりだな」
低く押し殺した声。
だがその奥には、抑え込まれた怒りが確かに滲んでいた。
侯爵は愉快そうに喉を鳴らし、肩を揺らして笑う。
「私の研究施設を壊すとは……随分と乱暴じゃないか」
「もう少し丁寧に扱ってくれてもいいだろうに」
軽口のようでいて、その言葉には明確な敵意が混じっている。
サラが一歩前に出た。
靴音が硬く床を打つ。
赤い瞳が、燃えるように侯爵を射抜く。
その瞳の奥には、怒りだけではない――恐怖と、そして失われたものへの悲しみが渦巻いていた。
「あなたが……」
声が震える。だが、視線は逸らさない。
「村を襲ったんですか」
一瞬の静寂。
その問いは、この場の空気そのものを凍らせた。
侯爵は首をわずかに傾げる。
まるで質問の意味を測るように。
「ああ」
そして、あまりにもあっさりと答えた。
「優秀な種族だからね」
「研究材料として使わせてもらったよ」
悪びれる様子は一切ない。
それどころか、誇らしげですらあった。
サンが堪えきれず叫ぶ。
「ふざけんな!」
怒りで声が裏返る。拳が震えている。
目の前の男がやったことの重さに、理性が追いつかない。
侯爵は軽く肩をすくめるだけだった。
「弱い者は利用される」
「それが世界の摂理だろう?」
まるで常識を語るかのような口調。
その無慈悲さが、逆に現実味を帯びていた。
アルフレッドが静かに一歩前へ出る。
足音は小さいが、その一歩で空気が変わる。
「……気に入らないな」
低い声。だがはっきりとした拒絶。
侯爵は目を細め、面白そうに口角を上げる。
「君も同じ貴族だろう?」
「何を今さら綺麗事を」
その言葉は挑発だった。
過去を知る者だからこその、的確な一撃。
だがアルフレッドは一瞬も揺れない。
「違う、私は」
わずかに間を置き、言葉を選ぶ。
「理不尽が嫌いだ」
短いが、迷いのない答えだった。
その瞬間、場の空気が張り詰める。
まるで見えない糸が全員の喉元に巻き付いたかのように。
侯爵は楽しげに指を鳴らした。
「では見せてあげよう」
「私の研究成果を」
乾いた音が響いた直後――
ドン、と重い衝撃。
地面が揺れ、壁に亀裂が走る。
次の瞬間、石壁が内側から吹き飛んだ。
瓦礫と粉塵の中から現れたのは――
巨大な魔物。
岩のような外殻と、脈打つ肉が無理やり組み合わされた異形。
関節は不自然にねじれ、体表には赤黒い光が走っている。
生き物とも、兵器ともつかない存在。
サンの喉がひくりと鳴る。
「なにこれ……」
恐怖がそのまま言葉になった。
侯爵は満足げに頷く。
「人工魔物」
「ダークエルフの魔力で作った、傑作だ」
その言葉に、サラの顔から血の気が引く。
自分たちの同族が――材料にされた。
その事実が、胸の奥を抉る。
アルフレッドが短く呼ぶ。
「サラ」
「はい」
返事は震えていない。
だがその内側では、怒りが限界まで膨れ上がっていた。
「本気でやれ」
その一言に、サラの瞳が鋭く光る。
「はい」
周囲の空気が熱を帯びる。
彼女の足元から炎が生まれ、渦を巻きながら集まっていく。
やがてそれは、彼女の両手の前に巨大な火球となって凝縮された。
熱風が廊下を焼き、瓦礫を揺らす。
「スパストファイア!」
叫びと共に、火球が放たれる。
轟音。
爆炎が魔物を包み込み、衝撃が施設全体を揺らした。
天井から砂と石が降り注ぐ。
炎の中で、魔物の咆哮がかき消される。
侯爵は、その光景を見てわずかに目を見開いた。
「ほう……」
純粋な驚き。
そしてすぐに、それは歪んだ歓喜へと変わる。
「面白い」
口元が大きく歪む。
「やはりダークエルフは優秀だ」
その一言が、サラの理性を吹き飛ばした。
「あなたは……!」
踏み出そうとする。
今すぐにでもこの男を焼き尽くしたい衝動。
だが――
アルフレッドの手が静かに上がる。
「サラ」
その声だけで、彼女の動きが止まる。
歯を食いしばりながらも、一歩引く。
「今は撤退だ」
「え?」
理解が追いつかない。
だがアルフレッドの視線は冷静そのものだった。
「証拠は十分だ」
侯爵を真っ直ぐに睨む。
「次は王都で会おう」
それは宣戦布告だった。
侯爵は嬉しそうに笑う。
「楽しみにしているよ」
まるで再会の約束でも交わすかのように。
三人は踵を返し、崩れかけた施設を後にする。
背後ではまだ炎が揺れ、瓦礫の崩れる音が続いていた。
だが――
アルフレッドは気づいていた。
去り際、侯爵の視線が
サラではなく――
自分に向けられていたことに。
あの目は、獲物を見つけた研究者の目だった。
(狙いは……俺か)
胸の奥に、嫌な予感が静かに沈んでいく。
それでも彼は振り返らなかった。




