事故の違和感
今日は3話投稿します。
屋敷に戻った夜は、妙に静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように消え、広い廊下には靴音ひとつ響かない。
重厚な扉の奥――書斎には、ランプの淡い光だけが揺れていた。
アルフレッドは机に向かい、山のように積まれた書類に目を通していた。
しかし、その視線は紙面を追っているようで、どこか遠くを見ている。
ローゼン侯爵。
奴隷実験。
魔物研究。
一見すれば無関係に思える断片が、今は一本の線として結びつき始めている。
それは偶然ではない。
むしろ、意図的に隠されていた何かが、ようやく表に浮かび上がってきた――そんな感覚だった。
紙をめくる手が止まる。
アルフレッドは小さく息を吐いた。
(……遅すぎたかもしれんな)
そのとき、不意に扉が静かにノックされた。
「旦那様」
低く落ち着いた声。
長年仕えてきた執事、セバスだった。
「入れ」
短く答えると、扉が音もなく開き、セバスが一歩中へ入る。
背筋は真っ直ぐに伸び、表情はいつも通り冷静――だが、その瞳の奥にはわずかな緊張があった。
「なんだ」
アルフレッドは顔を上げ、彼を見る。
「少し気になる報告があります」
その言葉に、空気が微かに変わった。
書斎の静けさが、別の重さを帯びる。
アルフレッドは何も言わず、続きを促すように視線を向けた。
「例の事故の件です」
その瞬間――
時間が、止まったかのようだった。
妻と娘の事故。
半年前の出来事。
忘れた日は一日たりともない。
アンネス山の峠。
霧の深いあの場所で、馬車は谷へと落ちた。
誰も助けられなかった。
そう報告されていた。
だが――
「遺体が見つかっていない」
アルフレッドは静かに言った。
その声は抑えられていたが、内側には抑えきれない何かが滲んでいる。
セバスはゆっくりと頷いた。
「はい。捜索は打ち切られましたが、発見には至っておりません」
ランプの火が、わずかに揺れる。
その影が、アルフレッドの表情をさらに暗くした。
「そしてもう一つ」
セバスは続けた。
「事故の直前――ローゼン侯爵の私兵が、近くで目撃されています」
沈黙。
それは、ただの沈黙ではなかった。
確信に変わる直前の、重く鋭い静寂。
アルフレッドの手が止まる。
指先にわずかな力が入り、紙がわずかに軋んだ。
「……偶然とは思えないな」
低く、押し殺した声。
怒りとも、後悔ともつかない感情が滲む。
セバスは一歩だけ近づき、さらに言葉を重ねた。
「もし侯爵がダークエルフの研究をしているのであれば……」
一拍置く。
「ノード家の知識も、欲しているはずです」
その言葉は刃のようだった。
アルフレッドの瞳が鋭く細まる。
「つまり」
ゆっくりと、確かめるように口にする。
「事故ではない可能性がある、ということか」
「はい」
短い返答。
だが、それだけで十分だった。
アルフレッドの胸の奥で、何かが音を立てて動き出す。
諦めかけていたもの。
押し殺してきた希望。
それらが、再び形を持ち始めていた。
そのとき――
再び扉がノックされた。
「伯爵様」
柔らかな声。
サラだった。
アルフレッドは一瞬だけ視線を伏せ、感情を押し込める。
「入れ」
扉が開き、サラが控えめに入ってくる。
手には湯気の立つティーカップの載った盆。
「お茶をお持ちしました……」
そこまで言って、彼女は気づいた。
部屋の空気の異様さに。
普段とは違う、張り詰めた静けさ。
言葉にできない緊張。
サラは小さく首を傾げる。
「何かありましたか」
アルフレッドはすぐには答えなかった。
視線を落とし、ほんのわずかに迷う。
この話をするべきか。
希望を口にすることが、どれほど危ういかを知っているからだ。
だが――
ゆっくりと顔を上げた。
「……サラ」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
「もし大切な家族が、どこかで生きている可能性があったら」
言葉の途中で、ほんのわずかに詰まる。
「お前なら、どうする」
サラは一瞬も迷わなかった。
「探します」
即答だった。
そのあまりの速さに、アルフレッドは目を見開く。
「迷いはないのか」
問いかける声には、どこか試すような響きがあった。
サラはふっと微笑む。
その表情は、どこまでも柔らかく、まっすぐだった。
「だって」
ほんの少しだけ首を傾げる。
「家族ですよね」
その言葉は、静かに――しかし確かに、アルフレッドの胸に届いた。
強く、深く。
胸の奥が震える。
長い間凍りついていた感情が、ゆっくりと溶けていくようだった。
(……そうだな)
心の中で呟く。
もしかすると。
すべては終わっていなかったのかもしれない。
あの事故で、物語は終わったのではない。
ただ――
途切れていただけなのかもしれない。
妻と娘の物語は。
まだ、どこかで続いている。
窓の外では、風が強くなり始めていた。
木々を揺らし、夜の闇をざわめかせる。
それはまるで――
新しい嵐の始まりを告げる合図のようだった。
そしてどこかで――
金色の髪の少女が目を覚ます。
「……ここは」
彼女の瞳は
灰色に光っていた。




