阿片窟の男 その①
1
玄関を開けると、そこには犬がいた。
一条寺怜華の能力で生み出される、あの電子犬だ。
電飾のラインだけで構成されたような青白い犬が、「クゥーン」と微かに電子ノイズが混じった鳴き声を上げる。
「……まあ上がれよ。お茶は出さんが、水くらいならやる」
扉を開けると、迷いなく鏡の元へとスタスタと闖入して来る。
鏡は、訪ねてきた犬だけを家に招くという珍しい経験をした。
病的なまでに質素な鏡の部屋。
犬はクッションを見つけて、ここが居場所だとばかりに座り込む。
コップに水を注いで電子犬の手前に置いてやる鏡。
水面に青い光が反射して、ゆらゆらと波紋を描いた。
「お前さん知ってるっけ。俺探偵事務所を開いたんだよね。
あの刑事の佐藤さんに手伝ってもらってさ。
やっぱ世間体ってのがあるじゃん。
俺そういうのとかけ離れた人間だと思ってたから探偵になった時は嬉しくてさ、意外だったわ。
無免許医師である事に誇りを持つタイプだと思ってた」
当然のように訪れるのは暫しの沈黙。
「なんかやばい事でもあったの?あいつと喧嘩したとか?」
電子犬は首を横に振る。
「そうか……。そういえば、お前さん俺の言葉分かるのか。いい犬だな。相も変わらずに」
鏡が撫でようとすると、犬は疲れを癒すようにその場に伏せて寝る。
よく見ると光の粒子が一部欠落しており、傷があるし、何かと戦闘でもしたのだろうか。
鏡は犬の傍に寄って腰を下ろし、嫌がらないよう細心の注意を払って撫で続ける。
僅かに感じるその体温。
電子犬が身震いをしているのが撫でてみてようやっと分かった。
まず、ここに犬が居る事、それ自体がおかしい。
あの女刑事に何かあった。それも警察を頼れないような状況にあるのか……?
「まあいいか。考えるのはよそう。眠いし」
と鏡が呟くと、電子犬は1回だけ「ワン」と吠えてから、鏡の袖を引っ張り外へと向かおうとする。
「おいおい、中入ったり外出たり忙しいな」
鏡は財布も持たず鍵もかけず、もっとも普段からあまり鍵はかけていないが……、安息の地から魍魎はびこる屋外へ、連れていかれた。
2
見えない犬に袖を引っ張られ、中腰で歩く
。一般人には犬が見えないため、端から見れば一人で腰を曲げて歩く不審者だ。
好奇と蔑みの混じった道行く人の視線が痛い。
耐え難きを耐える。
そんな状況で連れていかれたのは警察署。
しかも、地下深くの第零課だった。
財布の中にあるIDカードを忘れたので、仕方ないので顔パスでゲートを通された。
「鏡さん、お久しぶりです。探偵社の設立手続き以来ですね」
「あっ、佐藤さん」
中肉中背、紺の背広。
平々凡々を絵に描いたような佐藤悠真の姿がそこにはあった。
鏡は深々と佐藤に礼をする。
佐藤は鏡の周りに居る中でもかなりまともな人間だった。
鏡はそう感じて再会した時、今までの非礼を詫びた。
佐藤は丁寧に対応し、社会的な地位獲得と、カモフラージュの為にと、鏡に探偵業を勧めた。
「何故ここに?特に鏡さんが必要とされる事件、解決に向かってるのは無いですが……」
「俺も困ってましてね。おたくの一条寺怜華の所の犬が袖を引っ張って来て」
「一条寺怜華……?誰ですか?」
佐藤は小首を傾げて、初めて聞いたような顔をした。
その表情には一点の曇りもなく、純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「えっ、あの風使いを倒した時に、俺と一緒に居た女の刑事ですよ。なんかちょっと偉そうな」
「何言ってるんですか。あの事件には鏡さんと私と狙撃手の方数名で対応したじゃないですか?もしかして疲れてます?」
佐藤にふざける気持ちなど毫も無いだろう。
おかしい。
実直で温厚篤実を絵にかいたような彼にこんなオスカー並みの演技は無理だろうし、する意味も無い。
なんらかの敵の能力にかかってあの女刑事の存在がこの世界から消失している、という推測は飛躍しすぎだろうか。
それなら、犬が傷ついているのにも納得が行く。
背筋を冷たいものが這い上がる。世界が丸ごと書き換えられたような、底知れぬ恐怖。
とりあえず、このまま騒ぎ立てて正気の人でないと思われるのは面倒だな、と鏡は思った。
「すみません。嫌だな、記憶違いかな。やっぱ疲れてるのかも」
お互いに申し訳なさそうな暫しの沈黙が流れた後、
「あ、忘れてた。お疲れのところ大変申し訳ないんですが、こちら大変立て込んでまして、ある人の対応を頼みたいんですよね」
と、佐藤が申し訳なさそうな表情で、頭を下げ頼み込む。
久々に関係性を大切にしたい人に鏡は出会えたし、彼の頼みは断らない方が良いと肌で感じた。
「良いですよ。こっちも手続きとか手伝ってもらったし。なんでも言ってください」
彼にしては殊勝な心掛けをした鏡は佐藤に左袒する事にした。
「それで、どういう仕事を?」
「鏡さんには、ある人の対応をしてもらうと思います。
一応、零課は怪事件を受け付けているので、その窓口対応としてですね。
警察署に来る、ちょっと……思い込みの激しい方が居るじゃないですか」
「まあ、貴方が言うならそうなんでしょうね。接客業ならそういう人が来るのも仕方ない。働いたことねえから分かんねえけど……」
鏡は自分で言いながら、忸怩たる思いで胸が一杯になった。
「それでですね、社会的地位が有るから無下には出来ないものの、ちょっとおかしいと言うか、具体的な根拠も無いようなものの聞き込みをしてもらおうと思いまして。
無能力者の僕には分かりませんが、能力者なら何らかのヒントを得れるかなという、まあ希望的観測ですね。曖昧な指示で申し訳ないのですが……上の指示でして、僕も逆らえないんです」
「まあ、暇なんでやりますよ。大変なんすね佐藤さんも……。」
鏡は、失礼な形になると鑑み、「本当は寝てたいけど」などと付言するのを思い留まった。
「鏡さん、聞き込みは専門では無いですし、そもそも刑事でも無いので、何も得れなくても大丈夫です。
形だけの聞き込みとなりますので。
『専門の相談員による聞き込みを行った』という事実が必要なだけですので」
「ほーん。それでその相手ってのは……」
「書類があるので渡しますよ。
まあ、その人の公式サイトのコピーですけど」
鏡はファイルを受け取る。
【黒羽根 利明】
48歳。数々のアイドルを育成に尽力した敏腕プロデューサー。
プロデュースしたアイドルは数知れず、代表的なもので『MARS』『snow-white』『陰獣』等アーティスト系からサブカル、王道路線を走るアイドルまで。
近年は大舞台から一線を引いて、地下アイドルのプロデュースに力を入れ、『斜陽族』『Crystal Amore』を育成中。
「ほーん、アイドルのプロデューサーね」
「お詳しいですか?」
「いや全く」
佐藤は申し訳無さそうな顔を続けながら再び口を開く。
「部屋を予約して有りますんで、よろしくお願いしますね。お偉いさんとコネがある方なので、くれぐれも失礼の無いように。鏡さん結構ズバズバ言っちゃうタイプだから」
「分かってますよ。それじゃ行ってきます」
鏡は薄汚れた刑事の溜まり場から、金が無いという背景を知れば、一応許せるような設備の談話室へと席を移した。




