昨日のお前を踏みにじれ その②
3
アパートの壁が剥がれ落ちた先は、暗闇ではなかった。
そこは、パステルカラーで塗り固められた、どこか書き割りのような街並みだった。空には太陽ではなく、巨大な照明器具のような光源が吊り下げられ、行き交う人々は一様に、薄気味悪いほど丁寧な笑顔を張り付けている。
「……出番だぞ。Mr. Bluesky」
鏡は、喉の奥から這い出るような声で背後霊を呼んだ。
だが、応えはない。
いつものように背後に感じる、あの重苦しくも頼もしい「青い気配」が、塵一つ残さず消えていた。
指を鳴らしても、コインを投げても、確率は微動だにしない。10%は10%のまま、ハズレはハズレとして、冷酷に鏡の前に居座り続けている。
「無駄だよ、鏡烏くん。ここは、私が君のために用意した『袋小路のマルチバース』だ」
虚空から、あの老人の声が降ってくる。
「ここでは君は能力者ではない。ただの、代わりのいくらでもいる底辺労働者だ。さあ、君に相応しい仕事を始めようじゃないか」
鏡が足元を見ると、いつの間にか体には汚れの目立つレインコートが羽織られ、手には「的中御礼」と書かれた無意味なプラカードが握らされていた。
そのバイトの内容は、吐き気がするほどシンプルで、救いようのないものだった。
街の中流階級たちが、日々のストレスを解消するために、円形広場に立たされた鏡に向かって生卵を投げつける。ただ、それだけだ。
「死ねよ、ゴミが!」
「お前みたいなやつがいるから、俺たちの生活が汚れるんだ!」
幸せそうな家庭の父親や、教育熱心そうな母親、着飾った若者たちが、屈託のない笑顔で卵を投じる。
バシャッ、と生臭い黄身が鏡の頬を伝い、割れた殻が首筋に刺さる。
鏡は、ただ立っていた。
本来ならここで怒り狂い、Mr. Blueskyを呼び出し、広場を更地に変えていたはずだ。
だが、今の彼には、目の前の卵を避ける確率すら操ることはできない。
ぐちょぐちょに濡れたレインコート。鼻を突く生臭さ。
これこそが、老人が鏡に与えた責任から解放された末の、純粋な惨めさだった。
4
卵を投げられるバイトに就いて1週間経った。
店長が優しいのが唯一の救いだったが、何よりもこちらを馬鹿にしている客の目が厭だった。
最低時給でこんな事やらされるのも厭だった。
店長が芋6個をビニール袋に入れて渡してくれた。
店長は俺に目を掛けてくれるが、店員みんなに平等に6個をくれた。
あのジジイにこの空間に引きずり込まれて、俺の価値は最低時給だし、芋6個なんだなと分かった。
今日も出勤しなければ……。
「──情けない姿だね、君」
罵声の雨を割って、一人の男が歩み寄ってきた。
鏡は、卵の黄身でかすむ目を見開いた。
そこにいたのは、鏡に似た男だった。
だが、決定的な違いがある。
仕立ての良いスリーピースのスーツ。一切の汚れがない肌。知性と「大いなる責任」を背負った者の、高潔な眼差し。
彼は、鏡がもし真っ当に生き、能力を正しく使い、ヒーローとして歩んでいたならばという可能性が結晶化したような、黄金の輝きを放つ「上位互換」だった。
「……なんだよ。俺の鏡は、もう少しマシな面を映すと思ってたんだがな」
鏡は地面に唾を吐いた。混じったのは血と卵の白身だ。
「僕は……そうだな。
言うなれば、ベン・ライリー。
君は責任を拒んだ。
だから、僕が代わりにそれを受け取ったんだ」
上位互換の男は、優雅に、だが絶対的な殺意を込めて右手を挙げた。
男の背後には、Mr. Blueskyではない。さらに巨大で、神々しい「何か」が、光の粒子となって顕現しようとしていた。
「紹介するよ。こいつは-Disasterpeace-。この世界に、バグである君はいらない。物語を美しく完結させるために、ここで消えてもらうよ」
黄金の光が、卵まみれの鏡を飲み込もうと膨れ上がった。




