表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/39

昨日のお前を踏みにじれ その②

3

アパートの壁が剥がれ落ちた先は、暗闇ではなかった。


そこは、パステルカラーで塗り固められた、どこか書き割りのような街並みだった。空には太陽ではなく、巨大な照明器具のような光源が吊り下げられ、行き交う人々は一様に、薄気味悪いほど丁寧な笑顔を張り付けている。


「……出番だぞ。Mr. Bluesky」

鏡は、喉の奥から這い出るような声で背後霊を呼んだ。


だが、応えはない。

いつものように背後に感じる、あの重苦しくも頼もしい「青い気配」が、塵一つ残さず消えていた。


指を鳴らしても、コインを投げても、確率は微動だにしない。10%は10%のまま、ハズレはハズレとして、冷酷に鏡の前に居座り続けている。


「無駄だよ、鏡烏くん。ここは、私が君のために用意した『袋小路のマルチバース』だ」

虚空から、あの老人の声が降ってくる。


「ここでは君は能力者ではない。ただの、代わりのいくらでもいる底辺労働者だ。さあ、君に相応しい仕事を始めようじゃないか」


鏡が足元を見ると、いつの間にか体には汚れの目立つレインコートが羽織られ、手には「的中御礼」と書かれた無意味なプラカードが握らされていた。


そのバイトの内容は、吐き気がするほどシンプルで、救いようのないものだった。

街の中流階級たちが、日々のストレスを解消するために、円形広場に立たされた鏡に向かって生卵を投げつける。ただ、それだけだ。


「死ねよ、ゴミが!」

「お前みたいなやつがいるから、俺たちの生活が汚れるんだ!」


幸せそうな家庭の父親や、教育熱心そうな母親、着飾った若者たちが、屈託のない笑顔で卵を投じる。

バシャッ、と生臭い黄身が鏡の頬を伝い、割れた殻が首筋に刺さる。


鏡は、ただ立っていた。

本来ならここで怒り狂い、Mr. Blueskyを呼び出し、広場を更地に変えていたはずだ。


だが、今の彼には、目の前の卵を避ける確率すら操ることはできない。

ぐちょぐちょに濡れたレインコート。鼻を突く生臭さ。


これこそが、老人が鏡に与えた責任から解放された末の、純粋な惨めさだった。



4


卵を投げられるバイトに就いて1週間経った。

店長が優しいのが唯一の救いだったが、何よりもこちらを馬鹿にしている客の目が厭だった。

最低時給でこんな事やらされるのも厭だった。


店長が芋6個をビニール袋に入れて渡してくれた。

店長は俺に目を掛けてくれるが、店員みんなに平等に6個をくれた。


あのジジイにこの空間に引きずり込まれて、俺の価値は最低時給だし、芋6個なんだなと分かった。

今日も出勤しなければ……。


「──情けない姿だね、君」

罵声の雨を割って、一人の男が歩み寄ってきた。

鏡は、卵の黄身でかすむ目を見開いた。

そこにいたのは、鏡に似た男だった。


だが、決定的な違いがある。

仕立ての良いスリーピースのスーツ。一切の汚れがない肌。知性と「大いなる責任」を背負った者の、高潔な眼差し。


彼は、鏡がもし真っ当に生き、能力を正しく使い、ヒーローとして歩んでいたならばという可能性が結晶化したような、黄金の輝きを放つ「上位互換」だった。


「……なんだよ。俺の鏡は、もう少しマシな面を映すと思ってたんだがな」

鏡は地面に唾を吐いた。混じったのは血と卵の白身だ。


「僕は……そうだな。

言うなれば、ベン・ライリー。

君は責任を拒んだ。

だから、僕が代わりにそれを受け取ったんだ」

上位互換の男は、優雅に、だが絶対的な殺意を込めて右手を挙げた。

男の背後には、Mr. Blueskyではない。さらに巨大で、神々しい「何か」が、光の粒子となって顕現しようとしていた。


「紹介するよ。こいつは-Disasterpeace-。この世界に、バグである君はいらない。物語を美しく完結させるために、ここで消えてもらうよ」


黄金の光が、卵まみれの鏡を飲み込もうと膨れ上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ