昨日のお前を踏みにじれ その①
深夜の事務所──といっても、実態は安アパートの六畳間に、場違いな革張りのソファを置いただけの空間に、その男は現れた。
男の名は鈴木という、どこにでもいるような、そしてどこにいても気づかれないような、薄い顔をした中年だった。
「家が、見えているのに帰れないんです」
鈴木は、震える手で差し出されたインスタントコーヒーを啜ることもせず、虚空を見つめていた。
本来は探偵事務所として機能していない部屋に依頼人を詰めれば、空気が淀むのは当然だった。
鏡は手持ち無沙汰を誤魔化すように伸びをしてこう続ける。
「住所を忘れたってんなら警察に行けよ。ここは一応探偵事務所だ、迷子の相談所じゃあない」
怯える仕草を見せる中年はこう返す。
「違うんです! 住所も、場所も、窓から見えるカミさんの背中も、全部そこにある。なのに、門をくぐった瞬間に、気がつくと駅の改札に立っているんです。……もう、三日も」
鏡の眉が微かに動く。三日。
鈴木の身体からは、あの「麻袋」の時と同じ、死体安置所を思わせる停滞した穢れの臭いが漂っていた。
「……へぇ。そいつは分が悪いな。何となく理解したよ」
風呂も洗濯も臨時の場で済ませたのだろう。目の隈が現れた顔と安っぽいスーツから見て取れるのは、中年男性の悲哀と憂愁だった。
鏡は Mr.Bluesky を顕現させるまでもなく直感した。
これは物理的な現象ではない。世界の「法則」そのものが、この男を拒絶している。
「鏡さんと言いましたね……、助けてください。俺は、ただ……自分の人生に戻りたいだけなんだ」
鈴木が泣き崩れようとした、その時だった。
事務所のボロいドアが、音もなく、まるですり抜けるようにして開いた。
「そんなに泣き叫んでも無駄だよ、鈴木くん。君の役目は、もう終わったんだから」
穏やかな、それでいて骨の髄まで凍りつかせるような声が響いた。
入ってきたのは、仕立ての良い、だが時代錯誤なほど真っ白なスーツに身を包んだ老人だった。背筋は不自然なほど真っ直ぐで、その瞳には、何億年もの時間を詰め込んだような、底知れない退屈が宿っている。
「……誰だ。気のいい爺さんだな。うちは予約制なんだがな」
鏡は椅子から立ち上がらず、ポケットの中で Mr.Bluesky の膂力を溜める。だが、老人は意に介さず、鈴木の肩に優しく手を置いた。
その瞬間、鈴木の姿が、古い映画のフィルムが燃えるように、パサリと灰になって消えた。
「……っ!?」
「驚かないでいい、鏡烏くん。彼は最初から、君を結末へ導くための『舞台装置』に過ぎなかった。彼は架空の存在だ。私の自作の『帰れない男』はどうだった?」
老人は鏡の向かい側に勝手に腰を下ろすと、まるで自分の作品を批評する作家のような口ぶりで続けた。
「あのコーヒーカップを喉に詰まらせた若者も、君の父親に死にかけた病を与えたのも、すべては私が書いたプロットの一部だ。何なら能力者の存在全てが私の創造物でしか無い。
自分のアイデンティティに悩む青年も、性癖に狂う壮年も、弱者を踏みにじる女政治家も、新興宗教のお飾りも、陰謀論を利用しようとした男も、自分の衝動に悩む男も、玩具に執着する男も、チンケだが最強の能力者も、自分の利益しか考えなかった社長も、暗黒の男も、麻袋の女も──」
鏡の脳裏に、これまでの忌まわしい記憶が走馬灯のように駆け巡る。
自分が必死に足掻き、Mr.Bluesky の拳で切り開いてきた戦い。それがすべて、この老人の「暇つぶし」だったというのか。
「私はこの世界のすべてを作り、観測する者。いわば、全知全能の脚本家だ。君という『大いなる責任を持たない男』が、どこまで私の物語を壊してくれるか、楽しませてもらったよ」
老人は楽しげに目を細め、鏡の顔を覗き込んだ。
「だが、物語には刺激が必要だ。君というバグを、より完璧な『上位互換』で塗り潰す……。それが、この物語の最終回に相応しい」
老人がパチンと指を鳴らした瞬間、安アパートの壁が、紙細工のように剥がれ落ちていった。
「始めようか。アニマ・メア・ルーチェ」




