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あの世で罰を受けるほど その②

3


目的地に到着した瞬間、鏡は背筋に薄寒いものを感じた。  

そこは、地図から忘れ去られたような朽ち果てた神社だった。

社殿の朱色は剥げ落ち、木材は虫食いに無数の穴を開けられている。

柳が、ゆらゆらと力なく揺れていた。  


「……今日は、この木を切り倒す」  

父の声は、神域の静寂に不自然なほど低く響いた。

造園業という仕事が、時にこれほど不気味な側面を持つとは鏡は思いもしなかった。


「それは何?」

 鏡は、父が取り出した小さなプラスチックケースと、コンビニで買ったような安物のカップ酒に目を向けた。

「酒と塩だ。切る前に清め、切った後に捧げる。

木に対する最低限の礼儀だ。……さもないと。」


普段は癇癪持ちの乱暴な父が、目に見えないものに敬意を払う姿を見て、鏡は少しだけ認識を改めた。


だが、次の言葉がその静かな敬意を塗り潰す。

「二十年前……まだ駆け出しだった俺は、この木を切れという依頼を受けた。その時は二人でやってたんだが、相方が死んだ」


 父の言葉には、作られていない重みがあった。

鏡は手持ち無沙汰を紛らわせるように、無意味に指を鳴らした。


樹齢三十年程度か、どこにでもある平凡な木だ。

そんな因縁、ただの迷信だろう――そう思いたかった。



 父がチェーンソーを起動する。

けたたましい爆音が神社の静寂を切り裂き、鋭い刃が樹皮に触れようとした、その刹那だった。


 硬い木を削る音ではない。濡れた肉に刃を突っ込んだような、粘着質な手応えと共に、チェーンソーが断末魔を上げて停止した。



「……なんだ? 刃が噛みやがったか」

父が忌々しげに刃を引き抜こうとする。


だが、鏡の目はその「傷口」に釘付けになっていた。  

切り口から溢れ出したのは、樹液ではなかった。

どす黒く、腐った血のような濁った液体がドロリと滲み出し、同時に強烈な腐臭が鼻を突く。

真夏のゴミ捨て場と、古い線香を混ぜ合わせたような、生理的な嫌悪感を呼び起こす臭気。


「おい、手伝え。これを……うっ!?」  


父が突然、胸を掻きむしるようにしてその場に崩れ落ちた。

顔色は瞬時に土気色へと変わり、唇が紫に染まる。


ニトロだ。

ニトロが必要だ。


鏡が駆け寄ろうとした、その時。頭上の柳の枝から、「それ」が音もなく落ちてきた。

ドサッ、グチュ。

湿った重量感のある音。

それは、人間が一人分、無理やり詰め込まれたような古びた麻袋だった。

表面には赤黒いシミが地図のように広がり、内側から何かが、狂ったように袋の壁を叩いている。


『――あ゛、ぅ、あ゛、あ゛ぁ゛……』


 袋の口を縛る荒縄の隙間から、女のうめき声が漏れた。ズルリ、と袋が動く。

足もないのに、ナメクジのように地面を這い、動けなくなった父の方へと滲り寄っていく。その軌跡には黒い粘液がべっとりと付着し、触れた下草を、命を吸い取るように枯らしていった。


「クソッ、来るな!」  

鏡は反射的に父の襟首を掴み、力任せに引きずった。

理屈ではない。

あれに触れたら、魂ごと腐らされる――そんな直感が脳内で警報を鳴らしていた。


 何とか軽トラの助手席に父を押し込み、震える手でニトロを舌下へ滑り込ませる。

心臓マッサージを繰り返しながら、鏡は運転席へと飛び乗った。


無免許。

教習所で数回触れただけのマニュアル車。

だが、迷っている暇は一秒もなかった。


「……持ってくれよ、親父、このポンコツも!」  

クラッチを蹴り込み、ギアを強引に一速へ叩き込む。

エンジンが悲鳴を上げ、車体が激しく揺れながら急発進した。    


しばらく走らせていると、車内に「あの匂い」が漂い始めた。

阿片窟、あるいは死体安置所のような、鼻を刺す穢れの臭い。


バックミラーを見れば、砂埃の向こうから、あの麻袋が転がるような速度で追ってきていた。

車輪も足もないくせに、アスファルトを滑り、最高速度で逃げる軽トラの背後にピタリと食らいつく。


 四辻が近づく。

袋が、内側から爆発するように膨らんだ。

形容しがたい絶叫。


助手席の父が、麻袋の叫びに呼応するように再び苦しげな声を上げる。


「クソが……。頼むぜ、BlueSky」


 鏡はハンドルを固定し、意識を背後へ集中させた。  

青い巨人――Mr.Blueskyが虚空から現れ、走行中の軽トラのリアゲートを、その並外れた膂力で真後ろから殴りつけた。


凄まじい衝撃と共に、軽トラは物理法則を無視して加速し、文字通り射出された。

タイヤが悲鳴を上げ、火花を散らしながら、麻袋の能力射程外へと一気に距離を突き放す。  


ミラーの中、ある境界線でピタリと止まった麻袋が、恨めしげに蠢いているのが見えた。

「……ハァ、ハァ……逃げ切った、か」  


すぐに脈を確認する。

微かだが、まだ親父の鼓動は刻まれていた。  


鏡は近くのコンビニに車を滑り込ませ、震える指で通報した。

遠くから聞こえてくるサイレンの音。  


普段なら忌々しく感じるその音が、これほど待ち遠しく、福音のように聞こえたことは、二十六年間の人生で一度もなかった。


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