暗黒への挑戦 その③
5
「待ってくれ」
取調室から去ろうとする鏡の背中に、山本の声が掛かる。
「先輩の遺品だ。奥さんに頼み込んで、身辺整理をさせてもらった時に見つけた」 山本は上着のポケットから、くしゃくしゃになったパンフレットを取り出し、鏡に差し出した。
「先輩は、ある自己啓発セミナーへ通っていた。そんな怪しいモンに頼る弱い人じゃなかったのに……。こっちは探偵じゃあないが、この線が怪しいと睨んでる」
手渡された紙は、握りしめられた跡が無数に残っていた。
その紙の皺の一つ一つに、追い詰められた男の脂汗と絶望が染み付いているようだった。
『人間の理性の殻を破り、魂をバイブレートさせる』
『日本の禅と最新の経営哲学を融合』
並べられた文言からは、鏡でなくとも鼻をつまみたくなるような、濃厚な胡散臭さが漂っている。
「マジで何の手がかりも無かったんだ。ありがとう、助かる」
鏡は素直に礼を言った。
コイツ、思ったより良い奴なのかもしれない。
もっとも、三日後に俺を暗黒空間に突き落とすのもコイツかもしれないが。
そんな複雑な心境を抱えつつ、鏡は重い鉄扉を押し開けた。
廊下で待っていた一条寺怜華に、中で起こった一部始終を打ち明ける。
「……っていう事だ。こっちはパンフの会社がやってるセミナーを当たってみる。 あんたらは常朝生命の方を捜査したほうが良さそうだな。
議員案件だから、慎重かつ迅速に……ってやつだろ?
まあいいけどさ」
皮肉めいた鏡の言葉に対し、一条寺は真剣な眼差しを返した。
「上司に掛け合って、私も貴方と行くわ」
「は?」
「何よりも大事なのは大臣の命。でも……その先輩を自殺に追い込んだ元凶を叩くのも、同じくらい重要に思えるの」
その横顔を見て、こいつ意外と熱い刑事なんだな、と鏡は少しだけ見直した。
6
罠だと分かっていて、ウツボカズラやモウセンゴケに飛び込むハエは居ないだろう。 ハエだって自分の命が惜しいし、利己的に自分の遺伝子を残す行動を取るからだ。
だが残念ながら、鏡烏も一条寺怜華も、その賢明かつ利己的なハエとは程遠かった。
罠だと分かっていて、インチキセミナーという食虫植物の壺へ、頭から飛び込むのだから。
本来なら定員いっぱいだったのだが、一条寺が警察のコネ──もとい「特別な配慮」を使って、なんとか参加枠をこじ開けた。
会場は、シャンデリアが煌めく豪奢なホテルの大広間。
一条寺は久々の華やかな空気に少しだけ心が躍ったが、ここがインチキ自己啓発セミナーの合宿所であり、自分がそのカモとして潜入している事実を思い返すと、心が何処かへ行ってしまいそうになる。
受付で運営から『心のノート』なるファンシーな冊子を渡され、「あなたの夢を書いておいてくださいね!」と満面の笑みで言われた時には、すでに帰りたくなっていた。
そしてついに、セミナーは催されてしまった。
数百人の参加者が用意された椅子に座り、ありがたい有名講師の、ありがたい講義を受ける。
壇上に上がったのは、竹中と名乗る男だった。
仕立ての良いスーツに身を包み、自信に満ちたオーラを放つその男は、界隈では有名らしい。
「私のセミナーは満足度98.5%!」とその笑顔で高らかに喧伝している。
その笑顔は、あまりに完璧すぎて、逆に能面のような不気味さを漂わせていた。
ここまで鏡は、本当にどうでもいいなと思っていたし、あてがわれた椅子が高級ホテル仕様で座り心地が最高だったので、遠慮なくいびきをかいて寝ていた。
ウトウトとして、睡眠において一番気持ちいい時間帯。
ある人物に体を揺らされ、強制的に覚醒させられる。
「ちょっと、起きなさい鏡」
一条寺である。
彼女はリクルートスーツに身を包み、すでに完璧な「真面目な研修生」の顔を作っていた。
「貴方が寝てる間に、話が進んでね。『赤黒ゲーム』ってものをやるようになったの」
「……何それ」
寝起きだからか、そっけなく返す。
「2名に分かれてペアを組めと言われたわ。何が始まるのかな……」
どうやら一条寺も詳細なルールまでは知らない様子だ。
「これ自体が能力の発現条件じゃあないといいが……」
鏡は単なる諧謔として言ったつもりだったが、口に出した瞬間、案外当たってそうな予感がして少し怖くなった。
壇上の竹中は、獲物を見定めるような目で会場を見渡し、赤黒ゲームについてかく語る。
「ビジネスとは決断です! そしてゼロサムゲームです! 今から配る『赤』と『黒』のカード。赤は『信頼』、黒は『裏切り』を意味します。
ペアになった2人で同時にカードを出しなさい。赤同士なら微量のプラス。
だが、相手が赤で自分が黒なら、裏切ったあなただけが莫大な得点を得る!
さあ、あなたは赤と黒をどう選択しますか」
会場がざわめく中、鏡は大きなあくびを一つ噛み殺した。
「……だ、そうです。一条寺さん」
「私は『赤』を出し続けるわ。組織の人間として、信頼を裏切るわけにはいかない」
「優等生だな」
「貴方は?」
「俺は……パスで」
「は?」
「だって、面倒くさいし」
ゲームが始まり、会場のあちこちから「裏切ったな!」「信じてたのに!」という怒号と悲鳴が上がり始める。
その阿鼻叫喚の中で、鏡烏だけがカードに触れもせず、再び心地よい椅子へ深く沈み込もうとしていた。
その怠惰が、カリスマ講師・竹中の逆鱗に触れるとも知らずに。




